それにしてもガン対策とは複雑怪奇で理解不能な部分と抗ガン剤との”匙の加減”という分かり易い部分がある。ということがこの数日で分かってきた。3月29日に抗ガン剤投与を止めたとたん、ぼくの体は健康へ向けて動き出す。30日になって昼食が食べられるようになった。
となると人間は正直な動物で、誰かを誘いたくなる。「あいつ、誘うおうかな」と思った。地元茅ヶ崎市を担当している女性の地方紙記者だ。ぼくの娘よりもずっと若く、記者には珍しい目の大きな美人だ。多分、30代半ばだろうな。いい記事を書いている。
ただ、ぼくの体の回復が本物かどうか、自信がない。誘うか誘うの止めようか、迷っている時、電話が鳴った。電話の向こうの声に思わず「えっ!」なんとウソのようなホントの話。誘おうと考えていた当の本人からの電話だった。そんなことたまにあるよね。
彼女は「時代の正体」という神奈川新聞の連載シリーズ班の担当記者。昨年、保阪正康が藤沢に講演に来た時、その内容を片面全面使って3回、詳細に報告したのである。テーマは「天皇と日本国憲法」だった。まさに全国紙ではめったにできない芸当だ。これが地方紙の良さ、というものだろう。
ぼくは彼女を誘って「すし善」へ行った。生前、開高健がよく行った馴染の店である。そこで「ぼく、ガンになっちゃって酒飲めないんだ」と小さな店で大きな声を出した。店主も女将さんもカウンターで寿司注文したばかりの客の夫婦も一斉にぼくを見返った。びっくり。店全体が凍り付いたよう。
「だからさ、ぼく、酒は飲めないの。でもさあ。今朝はかなり、回復して今夜は(寿司を)なんとか食べられそう」
驚いた人々(と言っても記者入れて6人のちっちゃ店)。抗ガン剤止めて3日目でしっかり健康を取り戻した。開高健記念館に神奈川新聞の(彼女が撮った)写真が司馬遼太郎の手紙と並べて展示していたよ」と店主。
「君は”司馬療並み”か。凄げえじゃないか」と冷やかした。
ぼくは開高健という作家を語った。昨夏、サイゴンの彼の定宿だったマジェスティック・ホテルのバーでワイン飲んだ話。南米アマゾンでの釣り紀行の面白さ。
城山三郎と下手なGolfをシアトルでやったことを話した。城山三郎は直木賞を獲った『総会屋錦城』がやはり面白いが、学生時代、大学祭で城山に講演してもらおうとこの茅ヶ崎市のご自宅を訪れたことがある。まだアパート住まいではなかったか。55年も前のこと。
渡辺淳一からLAに突然、電話がかかってきたことがある。「講演でシアトルに行くが北さん、Golf付き合わないか」という。城山三郎も一緒だった。大作家のお誘いというのでクラブバッグ担いで、トコトコ、シアトルまで行った。城山と組んで一緒に18ホール回った。ぼくのドラーバー・ショットが極端にシャンクしてGolf場沿いの家のガラスを割ってしまった。後日、請求書がLAに届いた。懐かしくも楽しい思い出だ。
城山三郎が終の棲家として茅ヶ崎市に住んでいたこともぼくが茅ヶ崎市を選んだ理由の一つ。丁寧に昭和史を取材した作家で、セミドキュメント風作品が多い。なかでも何度も読み直した小説に『落日燃ゆ』がある。文民首相・広田弘毅を評伝風に書いた作品である。
第28回毎日出版文化賞、第9回吉川英治文学賞を受賞した。
広田が唯一、文官として有罪に問われ絞首台に上ったのなら広田以上に戦争に加担し指導した人間がどっといる。もともと広田は外交官で、パリの平和会議に出ている。幣原喜重郎の後輩で協調派の外交官だった。彼らを軍閥が「軟弱外交」と激しく攻撃した。
権力との距離を考えた場合、処刑の対象となった官僚、政治家。例えば商工官僚・岸信介。東條内閣の商工大臣(後に軍需次官)として対英米戦の物資供給を一手に引き受けていた。現総理・安倍晋三の祖父である。岸が恩赦で釈放された経過は分からない。
城山の短編小説に『硫黄島に死す』という小品がある。1932年第一回のLAオリンピックで馬術大障害で金メダルを獲得した西竹一中佐(男爵)の生と死を描いたものだ。何度も読んだ。開高健が『ベトナム戦記』を書き、戦争の実相をぶちまけた作品も凄いが、城山の戦争に生き死んだ軍人の話も深い余韻を感応する。
久しぶりに美味しい寿司を食べ、二人の作家に話題が弾んだ。くだんの女性記者はぼくらと違う発想で取材し原稿を書いている。そこがなんとも面白い。彼女のことは改めて書きたい。
今日はソメイヨシノが満開、北の丸公園で後藤正治と花見することになっている。
2017年12月9日、神奈川県茅ヶ崎市の湘南東部総合病院で肝臓ガンが発見されました。このブログはガンに向き合う日々を記録したものです。 同年12月12日、入院。15日手術、22日退院しました。 多くの方々からメールや電話をいただきました。「大丈夫か」「何かできることは無いか」「十分、静養して回復を願っている」等々。 そこで2018年2月から「ガンと生きる」姿をブログで紹介します。 人間にとって「生きる」ことと「死ぬ」ことにどんな境界があるのか。死ぬことと生きることとは同じ意味ではないか、と考えてもいます。ご意見、反論、批判、感想などメールでください。
2018年3月31日土曜日
2018年3月30日金曜日
抗ガン剤投与一時休止②
抗ガン剤投与、一時休止という主治医の指示で、副作用に苦しんでいたぼくもようやく「少しは楽になれるかな」という期待感が湧いてきた。夕刻、新幹線で一気に名古屋から小田原にノンストップで突っ走る列車が1本だけある。18時16分新大阪発「ひかり532」号。小田原着が20時36分。東海道在来線に乗り換えて茅ヶ崎に着きタクシーで帰ると21時をとっくに過ぎていた。
疲れたなあ。考えれば当たり前か。早朝、病院に着き、終日、院内で検査や採血、採尿、診断、点滴が続き、心電図をとってコーディネーターとの打合せが終わると16時を過ぎていた。
診察の時、主治医はぼくの訴えに「そうですか。ちょっと副作用が厳しいなあ。少し休みますか…」とこれまでの抗ガン剤投与をストップすることを決めてくれた。その際、主治医は「QOL(Quality Of Life)も大事だからね」と言った。現代の医学では単に「救命」だけではなく患者の生活の質を悪化させない配慮も治療のうちだと考えるようになった。以前では考えられない進化と言えるだろう。
翌29日朝、喉のかすれがずいぶん楽になった。食欲はあまりないが、無理にサンドイッチを牛乳で流し込む。それでも全部は食べられない。抗ガン剤を飲まなくていいから少し気分に余裕がでてきた。唇の荒れは未だ続いている。
アメリカで知り合った同年の友人と新宿で会う。彼は3年前、膀胱ガンの手術を受け、退院したが、その後、肺に転位して抗ガン剤を飲んだ。副作用の激しさはぼくよりもっと厳しかったようだ。食欲がない、という状態がどんなふうか、熟知している。
「分かるよ、北さん。でもしょうがないよ」
お互い「ガン・サバイバー」だ。抗ガン剤の副作用に耐えることがガン患者に与えられた宿命である。やはり当初、「ガンと生きる」とこのブログのテーマを決めたことは間違っていなかった。ぼくはいま、体内にガンを抱きながら生きている。
抗ガン剤投与を止めて3日目。3月30日、ようやく効果が出てきた。朝から気分がいい。喉のカスレもかなり良くなった。茅ヶ崎の病院で医師の解説を受け、「ガン患者」という存在の実態が分かってきた。
昼食を食べた。500円の北海道丼。数の子、鮭、カニ、イクラなどを酢飯に乗せた海鮮丼。「美味しい」とまでは言わないが、食べられるだけでもマシ。明日が楽しみだ。
どうやら桜の満開に間にあった。北の丸公園の桜が今年も観ることが出来そう。
疲れたなあ。考えれば当たり前か。早朝、病院に着き、終日、院内で検査や採血、採尿、診断、点滴が続き、心電図をとってコーディネーターとの打合せが終わると16時を過ぎていた。
診察の時、主治医はぼくの訴えに「そうですか。ちょっと副作用が厳しいなあ。少し休みますか…」とこれまでの抗ガン剤投与をストップすることを決めてくれた。その際、主治医は「QOL(Quality Of Life)も大事だからね」と言った。現代の医学では単に「救命」だけではなく患者の生活の質を悪化させない配慮も治療のうちだと考えるようになった。以前では考えられない進化と言えるだろう。
翌29日朝、喉のかすれがずいぶん楽になった。食欲はあまりないが、無理にサンドイッチを牛乳で流し込む。それでも全部は食べられない。抗ガン剤を飲まなくていいから少し気分に余裕がでてきた。唇の荒れは未だ続いている。
アメリカで知り合った同年の友人と新宿で会う。彼は3年前、膀胱ガンの手術を受け、退院したが、その後、肺に転位して抗ガン剤を飲んだ。副作用の激しさはぼくよりもっと厳しかったようだ。食欲がない、という状態がどんなふうか、熟知している。
「分かるよ、北さん。でもしょうがないよ」
お互い「ガン・サバイバー」だ。抗ガン剤の副作用に耐えることがガン患者に与えられた宿命である。やはり当初、「ガンと生きる」とこのブログのテーマを決めたことは間違っていなかった。ぼくはいま、体内にガンを抱きながら生きている。
抗ガン剤投与を止めて3日目。3月30日、ようやく効果が出てきた。朝から気分がいい。喉のカスレもかなり良くなった。茅ヶ崎の病院で医師の解説を受け、「ガン患者」という存在の実態が分かってきた。
昼食を食べた。500円の北海道丼。数の子、鮭、カニ、イクラなどを酢飯に乗せた海鮮丼。「美味しい」とまでは言わないが、食べられるだけでもマシ。明日が楽しみだ。
どうやら桜の満開に間にあった。北の丸公園の桜が今年も観ることが出来そう。
2018年3月29日木曜日
抗ガン剤投与、一時休止①
主治医の診察を受けた。
抗ガン剤の副作用が厳しくて今日から抗ガン剤を少し休むことになった。ホッとしている。これで少しは抗ガン剤の副作用が収まるのか。
大いに期待しているが、今のところあまり変化はない。
相変わらず食欲はない。
抗ガン剤の効果は大きく、数字が示している。
抗ガン剤の副作用が厳しくて今日から抗ガン剤を少し休むことになった。ホッとしている。これで少しは抗ガン剤の副作用が収まるのか。
大いに期待しているが、今のところあまり変化はない。
相変わらず食欲はない。
抗ガン剤の効果は大きく、数字が示している。
2018年3月26日月曜日
毛ガニ食べたかった
26日、退院した。病院のシャトルバスで通り過ぎた中央公園の桜が満開。でも例年のウキウキ感がない。
それより砂川からメールで桜の便り、そちらの方が嬉しい。本人の了解を得て全文掲載する。
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茅ケ崎の病院に入院されたのですね。
ちょっと驚きましたけど、 食欲がなくお一人で暮らされている北岡さんに取りましては、病院にいることの方が、今は安心ですね。
食欲が多少なくても、病院なら栄養補給の対応ができますから。是非、水分補強だけでなく、たんぱく質を含む点滴で、 栄養補給をしていただいて、
体力保持して下さい。
気温が低い天候が続いていましたのに、桜だけは思いがけず早く咲き始めた様です。
北岡さんの体力回復より、ちょっと桜が早すぎた様ですので、今年の桜は、満開になった、家の桜の写真でお楽しみください。
私の家の桜は、ソメイヨシノではなく、 江戸彼岸桜という野生種です。ソメイヨシノより花弁は小ぶりであでやかさはありませんが、 日本画のような淡い美しさがあります。
この桜は、武蔵野の雑木林によく見られた桜です。
60年程前に、父と雑木林から掘り起こして二本庭に植えました。1本は、車庫を作るために伐採してしまい、 残った一本を現在地に移植しました。
その木も、雪や台風で幹が折れてしまいました。
その幹も今なお花を咲かせ、 その木からこぼれた種で成長した新たな3本も今では見事な花を咲かせるようになりました。
この江戸彼岸桜は何より長寿であることです。ソメイヨシノは、今各地で寿命が来ていますが、江戸彼岸桜は、
最長のものは樹齢2000年を超え、日本の三大桜といわれる山高 神代桜、淡墨桜、三春滝桜は、国の天然記念物になっています。
砂川の大地で、風雪に耐え咲き誇る江戸彼岸桜から、パワーを受け取ってください。
砂川の大地では、四季折々の自然が見られます。桜はやがて葉桜に、そして新緑の美しい季節を‥‥
また麦の穂も天をついて実り始め、 沼田鈴子さんに生きる希望を与えた被爆アオギリ二世は、砂川の大地で、 3年目を迎えさらに成長を見せてくれることと思います。
ということで、お花見は写真でしていただき、新緑の頃に砂川に足をお運びくださいませ。
いつの季節でも、砂川の大地は北岡さんを歓迎しております。それまでしばらくは、病院での栄養補給をして下さい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
福島京子
砂川平和ひろば
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(注)砂川闘争は日米安保は違憲という伊達判決で有名。違憲判決が出たが、慌てた政府は最高裁に特別抗告。ダグラス・マッカーサーJR駐日大使(GHQのマッカーサー総司令官と同名の甥)
に藤山外務大臣が呼ばれたことが分かっている。砂川闘争はその後の反米軍基地闘争のシンボルとなっている。
家内と電話、LAで親しくしていただいた公認会計士から見舞いの電話。
今度は札幌から毛ガニを送るという電話。例年、季節になるとでっかい毛ガニを送ってくれる友人。
「毛ガニ食べた~い!」ぼくの状況を詳しく話して、送るのは止めて欲しい、と要請。
「毛ガニ食べた~い!」ぼくの状況を詳しく話して、送るのは止めて欲しい、と要請。
悔しいけど味が無いのだから仕方が無い。
近鉄都ホテルの役員だった人から電話、明日の大阪のホテルの部屋の予約が出来ていなかったのでお願いした。
寝る前、日活映画「狂った果実」を観た。白黒映画で、石原裕次郎も津川雅彦も北原三枝も若いのは当然だが、今観るとまるでおとぎ話のような青春映画。舞台はここ、湘南。
あのころ自動車やヨット、スピードボートなど持っていたのはごく一部のお金持ちだけ。多くの観客は「あこがれ」で観ていたのではないか。
女性新聞記者が書いた『地図から消される街』(講談社現代新書)が届いていた。「311後の『言ってはいけない真実』」というサブタイトルがついている。
頑張っているなあ、と感心した。311で街が消える。いったい誰の所為か。
女性新聞記者が書いた『地図から消される街』(講談社現代新書)が届いていた。「311後の『言ってはいけない真実』」というサブタイトルがついている。
頑張っているなあ、と感心した。311で街が消える。いったい誰の所為か。
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2018年3月24日土曜日
再入院
翌朝、茅ヶ崎市の病院へ行った。院長に会う。
「入院しないか。北さん、その方が安心だよ」
彼はぼくが独り生活をしているのを知っている。確かに病院ならなにが起きても完全看護、これほど安心な場所はない。その場で大阪へ行くまで再入院を決めた。
一度、マンションに帰って入院に必要な下着などをまとめ、治験薬ともにカバンに突っ込み、タクシーを呼んだ。
再入院となるとなんとなく気構えが違ってくる。最初は「(病院なんて)高級刑務所、どこからどこまでも監視されている」というマイナスイメージの受け止め方をしていた。今度は逆に考えた。病院は「完全看護」、枕の上のボタン一つ押せば看護師が飛んできてくれる。薬飲むから水が欲しい、と言えばすぐ運んでくる。
ぼくはただ寝ていればいい。考えればこんな安心な場所はない。人間とは勝手な動物だ。再入院ですっかり安心した。廊下を点滴の支柱を引き摺って歩いている患者をみると「ああは、なりたくないな」と見ていたのが今や自分がその点滴を受けることで安心している。実際には点滴は血中の水分を補給するだけでガンとは無縁、あまり意味がない。でも点滴受けているとぼくは立派な患者。このように防御的になるのも抗がん剤の副作用が昂じているからだろう。
病室で主治医と話していたところへ電話が入った。LAで世話になった自動車部品メーカーの社長の奥さんからだった。2,3度電話しても誰も出ないので心配になってはがきを出した返事だった。親しかったその社長は後に本社の副社長となったが、人柄のいい経営者だった。息子はLAでレストランを経営、成功している。
それがアルツハイマーで施設へ入ったそうだ。どこも悪くなかったのに。ぼくは急に「高齢者世代」を痛く感じることとなった。アルツハイマーはガンではないけど厄介な病気である。彼こそ日本の自動車をアメリカ市場へ参入する際のビジネス尖兵だった。今や世界的な部品メーカーとして自動車工業界を席巻している。しかし病気には勝てない。
1980年代、ロングビーチの工場を菜っ葉服を着て歩き、気軽にアメリカ人工員に声を掛けていた。
「Good Morning Jack」「Ha~i 、how are you Ben?」
彼自身もヘンリーという米人名で呼ばせていた。日本人駐在員に米国名をつけることを義務づけていた。アメリカ人に日本名は覚えにくい。ボブやジミーやマークの方が呼び易いし覚えやすい。「郷に入れば郷に従え」を実践している日本人経営者にぼくは敬意を払った。
しばらくしてまた電話。
「どう?」
家内だった。吐いたこと、副作用が思いのほかきつく再入院したことを告げた。
「なにか必要なことあったらいつでも電話ちょうだい」
社交辞令とは思えない情感を感じた。
「入院しないか。北さん、その方が安心だよ」
彼はぼくが独り生活をしているのを知っている。確かに病院ならなにが起きても完全看護、これほど安心な場所はない。その場で大阪へ行くまで再入院を決めた。
一度、マンションに帰って入院に必要な下着などをまとめ、治験薬ともにカバンに突っ込み、タクシーを呼んだ。
再入院となるとなんとなく気構えが違ってくる。最初は「(病院なんて)高級刑務所、どこからどこまでも監視されている」というマイナスイメージの受け止め方をしていた。今度は逆に考えた。病院は「完全看護」、枕の上のボタン一つ押せば看護師が飛んできてくれる。薬飲むから水が欲しい、と言えばすぐ運んでくる。
ぼくはただ寝ていればいい。考えればこんな安心な場所はない。人間とは勝手な動物だ。再入院ですっかり安心した。廊下を点滴の支柱を引き摺って歩いている患者をみると「ああは、なりたくないな」と見ていたのが今や自分がその点滴を受けることで安心している。実際には点滴は血中の水分を補給するだけでガンとは無縁、あまり意味がない。でも点滴受けているとぼくは立派な患者。このように防御的になるのも抗がん剤の副作用が昂じているからだろう。
病室で主治医と話していたところへ電話が入った。LAで世話になった自動車部品メーカーの社長の奥さんからだった。2,3度電話しても誰も出ないので心配になってはがきを出した返事だった。親しかったその社長は後に本社の副社長となったが、人柄のいい経営者だった。息子はLAでレストランを経営、成功している。
それがアルツハイマーで施設へ入ったそうだ。どこも悪くなかったのに。ぼくは急に「高齢者世代」を痛く感じることとなった。アルツハイマーはガンではないけど厄介な病気である。彼こそ日本の自動車をアメリカ市場へ参入する際のビジネス尖兵だった。今や世界的な部品メーカーとして自動車工業界を席巻している。しかし病気には勝てない。
1980年代、ロングビーチの工場を菜っ葉服を着て歩き、気軽にアメリカ人工員に声を掛けていた。
「Good Morning Jack」「Ha~i 、how are you Ben?」
彼自身もヘンリーという米人名で呼ばせていた。日本人駐在員に米国名をつけることを義務づけていた。アメリカ人に日本名は覚えにくい。ボブやジミーやマークの方が呼び易いし覚えやすい。「郷に入れば郷に従え」を実践している日本人経営者にぼくは敬意を払った。
しばらくしてまた電話。
「どう?」
家内だった。吐いたこと、副作用が思いのほかきつく再入院したことを告げた。
「なにか必要なことあったらいつでも電話ちょうだい」
社交辞令とは思えない情感を感じた。
2018年3月21日水曜日
沢田知可子
朝の薬を飲んだら30分後、吐いた。3度。抗ガン剤の副作用がだんだん激しくなる。胃の中が空っぽになったけど食欲がない。大阪の病院へ電話したけど「今日はお休みです」と硬質の警備員の声。そうか、今日は春分の日なんだ。茅ヶ崎市の主治医に電話したら明日病院へきなさい、という。点滴をするそうだ。それまでじっと待つより他ない。
こんな時は静養すべしとベッドにもぐりこんで寝ていた。
午後1時過ぎ、沢田知可子から見舞いの電話。
「北岡さん、お元気?(ガンは)大丈夫?」
副作用のことを正直に話すと顔が曇った(電話の向こうだったから勝手に想像しただけだけど)。
沢田知可子との付き合いも長くなったなあ。20年ほど前、LAダウンタウンの北、バンカーヒルにあったコンドミニアムの事務所にふらっとやって来た。ぼくは日本のテレビを一部しか見ていないので沢田を知らなかった。同行の若い男が「紅白にでたんだぜ、千可チャン」と胸を張った。
「逢いたい」という曲が大ヒットしてミリオンセラーとなったそうだ。その年、NHKの紅白歌合戦に出場した。ぼくだってNHKくらい出たことあるし、BSの1時間番組を数本制作したこともある。ハリウッドの俳優、マコ・イワマツをキャスティングして「日系アメリカ人の半世紀」や「アマゾンに生きる日本人」などを制作した。
そのころぼくは紅白にとっくの昔に興味を失っていた。もちろん歌手の世界ではメジャーなのだろう。
親しくなったところで「千可チャン、LAでライヴのコンサートしないか」と誘ってみた。
「やりたいわ。できるの?」
彼女の熱い眼差しに促されて、全米日系人博物館新館のこけら落としにちょうどいいな、とアイリーン・ヒラノ館長(後にダニエル・イノウエ上院議員夫人)に話し、実現した。
<沢田知可子”愛”を歌うフレンドシップ・コンサート>と銘打ってライヴのコンサートをプロデュースした。1999年2月13日のことだ。その時の総領事が谷内正太郎(現国家安全保障局長)だった。
沢田知可子は芸能人にありがちな真っ青なアイシャドウ、長いツケマツゲ、真っ赤な口紅といったイメージからほど遠い。実に清楚で端麗な歌手である。声に透明感があり、歌が抜群に上手い。今も全国からお呼びがかかり、コンサートに余念がない。
ダンナがピアニストでナイスガイ、仲良し夫婦だ。
LA公演は1日2回やったけど会場は超満員、大成功だった。日本人のお爺ちゃん、お婆ちゃんが感動して目を潤ませていた。アイリーンも喜んでくれた。
「心配で、心配で、電話かけるの、ちょっとこわかtったの」
「大丈夫だよ。大丈夫。今日はちょっと(副作用で)しんどいけどな」
東京は雪で白くなっているという。それまで窓の外を眺めていなかったので、千可チャンの指摘で春の降雪を知った。
「こういう(ぼくの)状態なのでことしの花見は無理だなあ」
ぼくはちょっと寂し気に言った。
こんな時は静養すべしとベッドにもぐりこんで寝ていた。
午後1時過ぎ、沢田知可子から見舞いの電話。
「北岡さん、お元気?(ガンは)大丈夫?」
副作用のことを正直に話すと顔が曇った(電話の向こうだったから勝手に想像しただけだけど)。
沢田知可子との付き合いも長くなったなあ。20年ほど前、LAダウンタウンの北、バンカーヒルにあったコンドミニアムの事務所にふらっとやって来た。ぼくは日本のテレビを一部しか見ていないので沢田を知らなかった。同行の若い男が「紅白にでたんだぜ、千可チャン」と胸を張った。
「逢いたい」という曲が大ヒットしてミリオンセラーとなったそうだ。その年、NHKの紅白歌合戦に出場した。ぼくだってNHKくらい出たことあるし、BSの1時間番組を数本制作したこともある。ハリウッドの俳優、マコ・イワマツをキャスティングして「日系アメリカ人の半世紀」や「アマゾンに生きる日本人」などを制作した。
そのころぼくは紅白にとっくの昔に興味を失っていた。もちろん歌手の世界ではメジャーなのだろう。
親しくなったところで「千可チャン、LAでライヴのコンサートしないか」と誘ってみた。
「やりたいわ。できるの?」
彼女の熱い眼差しに促されて、全米日系人博物館新館のこけら落としにちょうどいいな、とアイリーン・ヒラノ館長(後にダニエル・イノウエ上院議員夫人)に話し、実現した。
<沢田知可子”愛”を歌うフレンドシップ・コンサート>と銘打ってライヴのコンサートをプロデュースした。1999年2月13日のことだ。その時の総領事が谷内正太郎(現国家安全保障局長)だった。
沢田知可子は芸能人にありがちな真っ青なアイシャドウ、長いツケマツゲ、真っ赤な口紅といったイメージからほど遠い。実に清楚で端麗な歌手である。声に透明感があり、歌が抜群に上手い。今も全国からお呼びがかかり、コンサートに余念がない。
ダンナがピアニストでナイスガイ、仲良し夫婦だ。
LA公演は1日2回やったけど会場は超満員、大成功だった。日本人のお爺ちゃん、お婆ちゃんが感動して目を潤ませていた。アイリーンも喜んでくれた。
「心配で、心配で、電話かけるの、ちょっとこわかtったの」
「大丈夫だよ。大丈夫。今日はちょっと(副作用で)しんどいけどな」
東京は雪で白くなっているという。それまで窓の外を眺めていなかったので、千可チャンの指摘で春の降雪を知った。
「こういう(ぼくの)状態なのでことしの花見は無理だなあ」
ぼくはちょっと寂し気に言った。
2018年3月20日火曜日
医師の友だち
今回の事態とは無関係にぼくには長年、ガンを手術してきた優秀な医者が友だちにいる。高校時代の同級生で京大医学部へ進んだ。学生時代、彼の下宿へもぐりこんだこともある。高校時代、彼は剣道を、ぼくは柔道部にいた。真面目な勉強家で同学年でトップクラスの成績だった。武道場で「いやあ、あっ。とうっ!」という彼の鋭い気合が今も聞こえてくるようだ。
柔道も剣道も体育の選択科目にあった。身体の小さいぼくは大きな奴を投げ飛ばしたくて柔道部に席を置いたが、果たせずいつも受け身役。ついに白帯で終わった。
彼は外科医となった。当時、外科医のすることと言えばガンを切ること。日本人には胃ガンが多く、外科的にガンを切り取るのが手っ取り早い。医学界の常識と言えた。
柔道も剣道も体育の選択科目にあった。身体の小さいぼくは大きな奴を投げ飛ばしたくて柔道部に席を置いたが、果たせずいつも受け身役。ついに白帯で終わった。
彼は外科医となった。当時、外科医のすることと言えばガンを切ること。日本人には胃ガンが多く、外科的にガンを切り取るのが手っ取り早い。医学界の常識と言えた。
ところが最近、肝臓ガンなどの臓器は外科的発想より、内科的アプローチの方が効果があることが分かってきた。分子標的剤というような高度の対ガン新薬も開発されている。ぼくが受けている治験治療がそれだ。ガンから生還でき、ガンが消えた事実を「寛解」と医学用語でいう。「完治」ではなく、とりあえずガンが消えたことを指す。再発するかどうかは分からない。しかしそこまでいけば一安心だ。彼からメールが届いたので全文紹介する。ぼくの場合、長丁場を示唆している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北岡 兄
電話をいただき有難うございました。「がんとの闘い」に頑張っておられる貴兄に敬意を表しています。前回、 お目にかかった時にお話ししたことをいろいろ考慮していただいて感謝しています。
私は30歳前から、 がん専門医として手術を中心に25年間活動してきましたが、当時は「がん」 と告知することも許されない時代で後悔することばかりでした。とくに抗がん剤を使用する治療(化学療法といいます) はよい薬がないのと副作用への対応が難しく、中途半端なことをしてしまいました。
私は30歳前から、
さて貴兄の場合ですが、病名もはっきり認識しておられるし、 治療法についてもよく知っておられる。 そこですこし厳しいことをお伝えしたいと思い、病期が「ステージ3」(注:茅ヶ崎市の医師は当初「ステージ4」と診断したが、今では「3」で同意)であること、 化学療法をかなりの間続ける必要のあることをあえて話しました。
病気の治療というのは、 主治医と患者さんとの間の共同作業と理解し、第3者が口出しをしてはならないと思うのですが、貴兄の精神力、 知力は周囲の“雑音”も吸収していける逞しさをもってるからです。
ふつう、 抗がん剤の副作用は大学病院で対応するのはかなり困難で、 どうしても近くの信頼できる医師に相談し、 きめ細かく対処していただくことが必要だと思っています。今回、かなり細かい対応がなされているようで、うれしく思っていますが、副作用による具体的な症状については、 地元の医師に訴える方が、より適切に対応してくれます。 地元の主治医にも時々報告し、接触を続けてくれることを祈っています。
今回の化学療法がいつまで続くか・・・、 治療効果と副作用を見比べながらかなりの長期戦になることを覚悟してほしいと思っています。 最終的には教授の判断を尊重して下さると、友人としても安心です。
かって慶応大学の近藤誠医師は「ガンと闘うな!」と申しました。 効果のはっきりしない化学療法で、副作用に苦しむ患者さんを見ていると、 そうした気持ちになることは自然の成り行きですが、それは医学の否定と同じで、 その行く先は明らかです。
友人として貴兄にお願いしたいことは、 地元の医師の助けも借りながら、まず半年頑張ってみることだと思います。
私の妹は肝癌でなくなりましたが、「兵糧攻め」も4回行いました 。私が主治医となった患者さんにも相当な無理をお願いしました。 たいへんな忍耐を要したと推測していますが、貴兄の精神力は誰よりも強靭です。 何か不安が生じましたらメールか、わが家に電話して下さい。. わたくしの経験が役立つときがあるかもしれません。
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