2018年3月31日土曜日

抗ガン剤一時休止③

それにしてもガン対策とは複雑怪奇で理解不能な部分と抗ガン剤との”匙の加減”という分かり易い部分がある。ということがこの数日で分かってきた。3月29日に抗ガン剤投与を止めたとたん、ぼくの体は健康へ向けて動き出す。30日になって昼食が食べられるようになった。

となると人間は正直な動物で、誰かを誘いたくなる。「あいつ、誘うおうかな」と思った。地元茅ヶ崎市を担当している女性の地方紙記者だ。ぼくの娘よりもずっと若く、記者には珍しい目の大きな美人だ。多分、30代半ばだろうな。いい記事を書いている。

ただ、ぼくの体の回復が本物かどうか、自信がない。誘うか誘うの止めようか、迷っている時、電話が鳴った。電話の向こうの声に思わず「えっ!」なんとウソのようなホントの話。誘おうと考えていた当の本人からの電話だった。そんなことたまにあるよね。

彼女は「時代の正体」という神奈川新聞の連載シリーズ班の担当記者。昨年、保阪正康が藤沢に講演に来た時、その内容を片面全面使って3回、詳細に報告したのである。テーマは「天皇と日本国憲法」だった。まさに全国紙ではめったにできない芸当だ。これが地方紙の良さ、というものだろう。

ぼくは彼女を誘って「すし善」へ行った。生前、開高健がよく行った馴染の店である。そこで「ぼく、ガンになっちゃって酒飲めないんだ」と小さな店で大きな声を出した。店主も女将さんもカウンターで寿司注文したばかりの客の夫婦も一斉にぼくを見返った。びっくり。店全体が凍り付いたよう。

「だからさ、ぼく、酒は飲めないの。でもさあ。今朝はかなり、回復して今夜は(寿司を)なんとか食べられそう」

驚いた人々(と言っても記者入れて6人のちっちゃ店)。抗ガン剤止めて3日目でしっかり健康を取り戻した。開高健記念館に神奈川新聞の(彼女が撮った)写真が司馬遼太郎の手紙と並べて展示していたよ」と店主。
「君は”司馬療並み”か。凄げえじゃないか」と冷やかした。

ぼくは開高健という作家を語った。昨夏、サイゴンの彼の定宿だったマジェスティック・ホテルのバーでワイン飲んだ話。南米アマゾンでの釣り紀行の面白さ。
城山三郎と下手なGolfをシアトルでやったことを話した。城山三郎は直木賞を獲った『総会屋錦城』がやはり面白いが、学生時代、大学祭で城山に講演してもらおうとこの茅ヶ崎市のご自宅を訪れたことがある。まだアパート住まいではなかったか。55年も前のこと。

渡辺淳一からLAに突然、電話がかかってきたことがある。「講演でシアトルに行くが北さん、Golf付き合わないか」という。城山三郎も一緒だった。大作家のお誘いというのでクラブバッグ担いで、トコトコ、シアトルまで行った。城山と組んで一緒に18ホール回った。ぼくのドラーバー・ショットが極端にシャンクしてGolf場沿いの家のガラスを割ってしまった。後日、請求書がLAに届いた。懐かしくも楽しい思い出だ。

城山三郎が終の棲家として茅ヶ崎市に住んでいたこともぼくが茅ヶ崎市を選んだ理由の一つ。丁寧に昭和史を取材した作家で、セミドキュメント風作品が多い。なかでも何度も読み直した小説に『落日燃ゆ』がある。文民首相・広田弘毅を評伝風に書いた作品である。
第28回毎日出版文化賞、第9回吉川英治文学賞を受賞した。

広田が唯一、文官として有罪に問われ絞首台に上ったのなら広田以上に戦争に加担し指導した人間がどっといる。もともと広田は外交官で、パリの平和会議に出ている。幣原喜重郎の後輩で協調派の外交官だった。彼らを軍閥が「軟弱外交」と激しく攻撃した。

権力との距離を考えた場合、処刑の対象となった官僚、政治家。例えば商工官僚・岸信介。東條内閣の商工大臣(後に軍需次官)として対英米戦の物資供給を一手に引き受けていた。現総理・安倍晋三の祖父である。岸が恩赦で釈放された経過は分からない。

城山の短編小説に『硫黄島に死す』という小品がある。1932年第一回のLAオリンピックで馬術大障害で金メダルを獲得した西竹一中佐(男爵)の生と死を描いたものだ。何度も読んだ。開高健が『ベトナム戦記』を書き、戦争の実相をぶちまけた作品も凄いが、城山の戦争に生き死んだ軍人の話も深い余韻を感応する。

久しぶりに美味しい寿司を食べ、二人の作家に話題が弾んだ。くだんの女性記者はぼくらと違う発想で取材し原稿を書いている。そこがなんとも面白い。彼女のことは改めて書きたい。
今日はソメイヨシノが満開、北の丸公園で後藤正治と花見することになっている。

2018年3月30日金曜日

抗ガン剤投与一時休止②

抗ガン剤投与、一時休止という主治医の指示で、副作用に苦しんでいたぼくもようやく「少しは楽になれるかな」という期待感が湧いてきた。夕刻、新幹線で一気に名古屋から小田原にノンストップで突っ走る列車が1本だけある。18時16分新大阪発「ひかり532」号。小田原着が20時36分。東海道在来線に乗り換えて茅ヶ崎に着きタクシーで帰ると21時をとっくに過ぎていた。

疲れたなあ。考えれば当たり前か。早朝、病院に着き、終日、院内で検査や採血、採尿、診断、点滴が続き、心電図をとってコーディネーターとの打合せが終わると16時を過ぎていた。

診察の時、主治医はぼくの訴えに「そうですか。ちょっと副作用が厳しいなあ。少し休みますか…」とこれまでの抗ガン剤投与をストップすることを決めてくれた。その際、主治医は「QOL(Quality Of Life)も大事だからね」と言った。現代の医学では単に「救命」だけではなく患者の生活の質を悪化させない配慮も治療のうちだと考えるようになった。以前では考えられない進化と言えるだろう。

翌29日朝、喉のかすれがずいぶん楽になった。食欲はあまりないが、無理にサンドイッチを牛乳で流し込む。それでも全部は食べられない。抗ガン剤を飲まなくていいから少し気分に余裕がでてきた。唇の荒れは未だ続いている。

アメリカで知り合った同年の友人と新宿で会う。彼は3年前、膀胱ガンの手術を受け、退院したが、その後、肺に転位して抗ガン剤を飲んだ。副作用の激しさはぼくよりもっと厳しかったようだ。食欲がない、という状態がどんなふうか、熟知している。
「分かるよ、北さん。でもしょうがないよ」

お互い「ガン・サバイバー」だ。抗ガン剤の副作用に耐えることがガン患者に与えられた宿命である。やはり当初、「ガンと生きる」とこのブログのテーマを決めたことは間違っていなかった。ぼくはいま、体内にガンを抱きながら生きている。

抗ガン剤投与を止めて3日目。3月30日、ようやく効果が出てきた。朝から気分がいい。喉のカスレもかなり良くなった。茅ヶ崎の病院で医師の解説を受け、「ガン患者」という存在の実態が分かってきた。

昼食を食べた。500円の北海道丼。数の子、鮭、カニ、イクラなどを酢飯に乗せた海鮮丼。「美味しい」とまでは言わないが、食べられるだけでもマシ。明日が楽しみだ。
どうやら桜の満開に間にあった。北の丸公園の桜が今年も観ることが出来そう。

2018年3月29日木曜日

抗ガン剤投与、一時休止①

主治医の診察を受けた。
抗ガン剤の副作用が厳しくて今日から抗ガン剤を少し休むことになった。ホッとしている。これで少しは抗ガン剤の副作用が収まるのか。
大いに期待しているが、今のところあまり変化はない。
相変わらず食欲はない。
抗ガン剤の効果は大きく、数字が示している。

2018年3月26日月曜日

毛ガニ食べたかった

26日、退院した。病院のシャトルバスで通り過ぎた中央公園の桜が満開。でも例年のウキウキ感がない。
それより砂川からメールで桜の便り、そちらの方が嬉しい。本人の了解を得て全文掲載する。
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茅ケ崎の病院に入院されたのですね。
ちょっと驚きましたけど、食欲がなくお一人で暮らされている北岡さんに取りましては、病院にいることの方が、今は安心ですね。

食欲が多少なくても、病院なら栄養補給の対応ができますから。是非、水分補強だけでなく、たんぱく質を含む点滴で、栄養補給をしていただいて、
体力保持して下さい。

気温が低い天候が続いていましたのに、桜だけは思いがけず早く咲き始めた様です。

北岡さんの体力回復より、ちょっと桜が早すぎた様ですので、今年の桜は、満開になった、家の桜の写真でお楽しみください。

私の家の桜は、ソメイヨシノではなく、江戸彼岸桜という野生種です。ソメイヨシノより花弁は小ぶりであでやかさはありませんが、日本画のような淡い美しさがあります。
この桜は、武蔵野の雑木林によく見られた桜です。
60年程前に、父と雑木林から掘り起こして二本庭に植えました。1本は、車庫を作るために伐採してしまい、残った一本を現在地に移植しました。
その木も、雪や台風で幹が折れてしまいました。

その幹も今なお花を咲かせ、その木からこぼれた種で成長した新たな3本も今では見事な花を咲かせるようになりました。
 この江戸彼岸桜は何より長寿であることです。ソメイヨシノは、今各地で寿命が来ていますが、江戸彼岸桜は、
最長のものは樹齢2000年を超え、日本の三大桜といわれる山高神代桜淡墨桜三春滝桜は、国の天然記念物になっています。

砂川の大地で、風雪に耐え咲き誇る江戸彼岸桜から、パワーを受け取ってください。

砂川の大地では、四季折々の自然が見られます。桜はやがて葉桜に、そして新緑の美しい季節を‥‥
また麦の穂も天をついて実り始め、沼田鈴子さんに生きる希望を与えた被爆アオギリ二世は、砂川の大地で、3年目を迎えさらに成長を見せてくれることと思います。

ということで、お花見は写真でしていただき、新緑の頃に砂川に足をお運びくださいませ。

いつの季節でも、砂川の大地は北岡さんを歓迎しております。それまでしばらくは、病院での栄養補給をして下さい。

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福島京子
砂川平和ひろば
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(注)砂川闘争は日米安保は違憲という伊達判決で有名。違憲判決が出たが、慌てた政府は最高裁に特別抗告。ダグラス・マッカーサーJR駐日大使(GHQのマッカーサー総司令官と同名の甥)
に藤山外務大臣が呼ばれたことが分かっている。砂川闘争はその後の反米軍基地闘争のシンボルとなっている。


家内と電話、LAで親しくしていただいた公認会計士から見舞いの電話。
今度は札幌から毛ガニを送るという電話。例年、季節になるとでっかい毛ガニを送ってくれる友人。
「毛ガニ食べた~い!」ぼくの状況を詳しく話して、送るのは止めて欲しい、と要請。
悔しいけど味が無いのだから仕方が無い。
近鉄都ホテルの役員だった人から電話、明日の大阪のホテルの部屋の予約が出来ていなかったのでお願いした。

寝る前、日活映画「狂った果実」を観た。白黒映画で、石原裕次郎も津川雅彦も北原三枝も若いのは当然だが、今観るとまるでおとぎ話のような青春映画。舞台はここ、湘南。
あのころ自動車やヨット、スピードボートなど持っていたのはごく一部のお金持ちだけ。多くの観客は「あこがれ」で観ていたのではないか。
女性新聞記者が書いた『地図から消される街』(講談社現代新書)が届いていた。「311後の『言ってはいけない真実』」というサブタイトルがついている。
頑張っているなあ、と感心した。311で街が消える。いったい誰の所為か。
2 個の添付ファイル

2018年3月24日土曜日

再入院

翌朝、茅ヶ崎市の病院へ行った。院長に会う。
「入院しないか。北さん、その方が安心だよ」
彼はぼくが独り生活をしているのを知っている。確かに病院ならなにが起きても完全看護、これほど安心な場所はない。その場で大阪へ行くまで再入院を決めた。
一度、マンションに帰って入院に必要な下着などをまとめ、治験薬ともにカバンに突っ込み、タクシーを呼んだ。

再入院となるとなんとなく気構えが違ってくる。最初は「(病院なんて)高級刑務所、どこからどこまでも監視されている」というマイナスイメージの受け止め方をしていた。今度は逆に考えた。病院は「完全看護」、枕の上のボタン一つ押せば看護師が飛んできてくれる。薬飲むから水が欲しい、と言えばすぐ運んでくる。

ぼくはただ寝ていればいい。考えればこんな安心な場所はない。人間とは勝手な動物だ。再入院ですっかり安心した。廊下を点滴の支柱を引き摺って歩いている患者をみると「ああは、なりたくないな」と見ていたのが今や自分がその点滴を受けることで安心している。実際には点滴は血中の水分を補給するだけでガンとは無縁、あまり意味がない。でも点滴受けているとぼくは立派な患者。このように防御的になるのも抗がん剤の副作用が昂じているからだろう。

病室で主治医と話していたところへ電話が入った。LAで世話になった自動車部品メーカーの社長の奥さんからだった。2,3度電話しても誰も出ないので心配になってはがきを出した返事だった。親しかったその社長は後に本社の副社長となったが、人柄のいい経営者だった。息子はLAでレストランを経営、成功している。

それがアルツハイマーで施設へ入ったそうだ。どこも悪くなかったのに。ぼくは急に「高齢者世代」を痛く感じることとなった。アルツハイマーはガンではないけど厄介な病気である。彼こそ日本の自動車をアメリカ市場へ参入する際のビジネス尖兵だった。今や世界的な部品メーカーとして自動車工業界を席巻している。しかし病気には勝てない。

1980年代、ロングビーチの工場を菜っ葉服を着て歩き、気軽にアメリカ人工員に声を掛けていた。
「Good Morning Jack」「Ha~i 、how are you Ben?」
彼自身もヘンリーという米人名で呼ばせていた。日本人駐在員に米国名をつけることを義務づけていた。アメリカ人に日本名は覚えにくい。ボブやジミーやマークの方が呼び易いし覚えやすい。「郷に入れば郷に従え」を実践している日本人経営者にぼくは敬意を払った。

しばらくしてまた電話。
「どう?」
家内だった。吐いたこと、副作用が思いのほかきつく再入院したことを告げた。
「なにか必要なことあったらいつでも電話ちょうだい」
社交辞令とは思えない情感を感じた。

2018年3月21日水曜日

沢田知可子

朝の薬を飲んだら30分後、吐いた。3度。抗ガン剤の副作用がだんだん激しくなる。胃の中が空っぽになったけど食欲がない。大阪の病院へ電話したけど「今日はお休みです」と硬質の警備員の声。そうか、今日は春分の日なんだ。茅ヶ崎市の主治医に電話したら明日病院へきなさい、という。点滴をするそうだ。それまでじっと待つより他ない。
こんな時は静養すべしとベッドにもぐりこんで寝ていた。

午後1時過ぎ、沢田知可子から見舞いの電話。
「北岡さん、お元気?(ガンは)大丈夫?」
副作用のことを正直に話すと顔が曇った(電話の向こうだったから勝手に想像しただけだけど)。

沢田知可子との付き合いも長くなったなあ。20年ほど前、LAダウンタウンの北、バンカーヒルにあったコンドミニアムの事務所にふらっとやって来た。ぼくは日本のテレビを一部しか見ていないので沢田を知らなかった。同行の若い男が「紅白にでたんだぜ、千可チャン」と胸を張った。
「逢いたい」という曲が大ヒットしてミリオンセラーとなったそうだ。その年、NHKの紅白歌合戦に出場した。ぼくだってNHKくらい出たことあるし、BSの1時間番組を数本制作したこともある。ハリウッドの俳優、マコ・イワマツをキャスティングして「日系アメリカ人の半世紀」や「アマゾンに生きる日本人」などを制作した。

そのころぼくは紅白にとっくの昔に興味を失っていた。もちろん歌手の世界ではメジャーなのだろう。
親しくなったところで「千可チャン、LAでライヴのコンサートしないか」と誘ってみた。
「やりたいわ。できるの?」
彼女の熱い眼差しに促されて、全米日系人博物館新館のこけら落としにちょうどいいな、とアイリーン・ヒラノ館長(後にダニエル・イノウエ上院議員夫人)に話し、実現した。
<沢田知可子”愛”を歌うフレンドシップ・コンサート>と銘打ってライヴのコンサートをプロデュースした。1999年2月13日のことだ。その時の総領事が谷内正太郎(現国家安全保障局長)だった。

沢田知可子は芸能人にありがちな真っ青なアイシャドウ、長いツケマツゲ、真っ赤な口紅といったイメージからほど遠い。実に清楚で端麗な歌手である。声に透明感があり、歌が抜群に上手い。今も全国からお呼びがかかり、コンサートに余念がない。
ダンナがピアニストでナイスガイ、仲良し夫婦だ。
LA公演は1日2回やったけど会場は超満員、大成功だった。日本人のお爺ちゃん、お婆ちゃんが感動して目を潤ませていた。アイリーンも喜んでくれた。

「心配で、心配で、電話かけるの、ちょっとこわかtったの」
「大丈夫だよ。大丈夫。今日はちょっと(副作用で)しんどいけどな」
東京は雪で白くなっているという。それまで窓の外を眺めていなかったので、千可チャンの指摘で春の降雪を知った。
「こういう(ぼくの)状態なのでことしの花見は無理だなあ」
ぼくはちょっと寂し気に言った。

2018年3月20日火曜日

医師の友だち

今回の事態とは無関係にぼくには長年、ガンを手術してきた優秀な医者が友だちにいる。高校時代の同級生で京大医学部へ進んだ。学生時代、彼の下宿へもぐりこんだこともある。高校時代、彼は剣道を、ぼくは柔道部にいた。真面目な勉強家で同学年でトップクラスの成績だった。武道場で「いやあ、あっ。とうっ!」という彼の鋭い気合が今も聞こえてくるようだ。
柔道も剣道も体育の選択科目にあった。身体の小さいぼくは大きな奴を投げ飛ばしたくて柔道部に席を置いたが、果たせずいつも受け身役。ついに白帯で終わった。

彼は外科医となった。当時、外科医のすることと言えばガンを切ること。日本人には胃ガンが多く、外科的にガンを切り取るのが手っ取り早い。医学界の常識と言えた。
ところが最近、肝臓ガンなどの臓器は外科的発想より、内科的アプローチの方が効果があることが分かってきた。分子標的剤というような高度の対ガン新薬も開発されている。ぼくが受けている治験治療がそれだ。ガンから生還でき、ガンが消えた事実を「寛解」と医学用語でいう。「完治」ではなく、とりあえずガンが消えたことを指す。再発するかどうかは分からない。しかしそこまでいけば一安心だ。彼からメールが届いたので全文紹介する。ぼくの場合、長丁場を示唆している。

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北岡 兄

 電話をいただき有難うございました。「がんとの闘い」に頑張っておられる貴兄に敬意を表しています。前回、お目にかかった時にお話ししたことをいろいろ考慮していただいて感謝しています。

私は30歳前から、がん専門医として手術を中心に25年間活動してきましたが、当時は「がん」と告知することも許されない時代で後悔することばかりでした。とくに抗がん剤を使用する治療(化学療法といいます)はよい薬がないのと副作用への対応が難しく、中途半端なことをしてしまいました。

 さて貴兄の場合ですが、病名もはっきり認識しておられるし、治療法についてもよく知っておられる。そこですこし厳しいことをお伝えしたいと思い、病期が「ステージ3」(注:茅ヶ崎市の医師は当初「ステージ4」と診断したが、今では「3」で同意)であること、化学療法をかなりの間続ける必要のあることをあえて話しました。

 病気の治療というのは、主治医と患者さんとの間の共同作業と理解し、第3者が口出しをしてはならないと思うのですが、貴兄の精神力、知力は周囲の“雑音”も吸収していける逞しさをもってるからです。

 ふつう、抗がん剤の副作用は大学病院で対応するのはかなり困難で、どうしても近くの信頼できる医師に相談し、きめ細かく対処していただくことが必要だと思っています。今回、かなり細かい対応がなされているようで、うれしく思っていますが、副作用による具体的な症状については、地元の医師に訴える方が、より適切に対応してくれます。地元の主治医にも時々報告し、接触を続けてくれることを祈っています。

 今回の化学療法がいつまで続くか・・・、治療効果と副作用を見比べながらかなりの長期戦になることを覚悟してほしいと思っています。最終的には教授の判断を尊重して下さると、友人としても安心です。

 かって慶応大学の近藤誠医師は「ガンと闘うな!」と申しました。効果のはっきりしない化学療法で、副作用に苦しむ患者さんを見ていると、そうした気持ちになることは自然の成り行きですが、それは医学の否定と同じで、その行く先は明らかです。

 友人として貴兄にお願いしたいことは、地元の医師の助けも借りながら、まず半年頑張ってみることだと思います。

 私の妹は肝癌でなくなりましたが、「兵糧攻め」も4回行いました。私が主治医となった患者さんにも相当な無理をお願いしました。たいへんな忍耐を要したと推測していますが、貴兄の精神力は誰よりも強靭です。 何か不安が生じましたらメールか、わが家に電話して下さい. わたくしの経験が役立つときがあるかもしれません。


見舞いの友だち

3月17日、ボルネオから帰国した通信制・星槎大学の坪内俊憲教授が茅ヶ崎に来てくれた。この地球にたった1匹となってしまったボルネオ犀の保護活動、ボルネオ象やオラウータンを絶滅させまいと頑張っている。もともと獣医で、WHOの仕事をやり、JAICAで辺地を巡った。

ぼくが星槎大学の教授として「平和学」を担当した時、出会った。妙に人懐っこい人柄である。彼に連れられてボルネオ島へ行った。象の糞を見つけ、野生のオラウータンを3回見ることができた。ホテルの庭には体型2メートルは越える大トカゲがノソノソ出てきたり、珍しい野鳥やサルを何種も観察した。

マレーシャのサバ州はボルネオにしかいない野生動物の最後の生息地である。

広大な島の大部分のジャングルは切り拓かれ、ほとんどがパーム油(アブラヤシ)園に変わった。文明に追われた野生動物は生息地のジャングルが無くなってどんどん死んでいった。今やサバ州にしかいないそうだ。ボルネオ政府も野生動物の保護に乗り出している。

翌日18日、星槎大学の山口道宏准教授から「ぜひ、見舞いに行きたい」とまた電話。毎日新聞の出版部にいた元記者で、福祉問題の専門家。ぼくより10歳若い。何としても茅ヶ崎市まで来る、というから、たまたま東京へ行く予定があるから、と四谷のホテルで会うことになった。同じジャーナリスト仲間と見ていてくれたのだろう。口内炎は少し収まっていた。

山口と会った後、元検事と化学薬品を扱っている商社の経営者の3人で飲んだ。と、言ってもぼくは断酒中だからノンアルコールを注文。ロッキード事件や原発、立花隆や柳田邦男、それに今話題のモリカケ問題など話題は広範囲に及び実に楽しい会話となり、久しぶりの再会に話が弾んだ。

40数年前、若い検事とぼくは南平台のマンションで麻雀仲間だった。その後、彼は東京地検で辣腕を振るった。生真面目な検察官僚で検察官の地位を上り詰めた。いろん著名な事件で活躍したが、今はプライバシーを尊重して詳しく書くことは控えよう。彼から珍しいものをプレゼントされたが、詳細は内緒。

化学薬品商社の経営者は元々、経済官僚。LAの総領事館の領事時代に一緒にGolfをやった。要するに二人とも仕事とは全く無関係の遊び仲間だった。ぼくのガンを心配してくれ、時間を作って会食となったのだ。明日はLAから帰国した友だちが夕食に茅ヶ崎市に来てくれる。

今朝は鎌田慧と電話で話した。彼とも古い友だち。このブログに丁寧なコメントも何度もくれた。優しい男だ。

友だちとはいいものだ。ガンになって多くの友だちが心配して声を掛けてくれる。やはりガンとはそれほど衝撃的な病気らしい。知らなかったのはアホなぼくだけ。

2018年3月19日月曜日

副作用という伏兵②

前回書いたジャーナリスト・原寿雄さんの死を思うとき、いま、集中的にメディアと国会で議論されてる森友学園問題をどう論評するだろう。少なくとも火付け役だった『朝日新聞』の健闘には敬意を表すると思う。「朝日がんばれ」のデモが築地の本社前で行われたというから潮目が変わったことは事実と言えよう。

苦しいのは麻生太郎財務大臣、安倍晋三総理。政権末期とはこんなものだろう。安倍の大叔父・佐藤栄作(第61・62・63代首相、安倍首相の祖父、岸信介・第56・57代首相の実弟)退陣の瞬間を想い出す。マスコミが長期政権を批判して大合唱で退陣を迫った。ついに佐藤は退陣の記者会見を開いたが、「ぼくはウソを書く新聞は大嫌いだ」と苦々しく語りぎょろり目を剝いて記者たちを睨んだ。

記者席から「新聞はうそを書く」という現職総理のコメントに抗議の発言があった。佐藤は謝罪しない。「気に入らなかったら出ていけ」とまで言った。冗談じゃあない、と内閣記者会の政治部の記者全員が立ち上がり、出て行った。ポツンと独り残された佐藤はNHKのカメラに向かって退陣の理由などを語った。権力にしがみ付いていた総理の末期の姿。もちろん日本の憲政史上初の珍事だった。1972年7月7日、佐藤の在任期間は7年8か月2,798日。

さて、安倍の退陣はどんな光景になるのか。今から楽しみだ。共同通信、毎日新聞など世論調査で支持率が不支持率を下回った。安倍政権にイエローカードである。これで安倍3選は消えた、と見てもいいか。それにしても安倍昭恵総理夫人とは強か(したたか)なのか、たんなる無知蒙昧か、厚顔なのか。今も講演を続けている。

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前回に続いてガンの副作用について主治医からメールが届いた。ちょっと専門的になるが状況がよく分かるので本人の了解を得て、転載する。

抗がん剤はその効果よりは身体を痛めつけ、全身状態を悪化させるから、辞めておいた方がよい。そんな意見がどうどうと成されている。確かに、今までの化学療法は奏効率50%以下でも、治療前に効果があるかどうかは治療してみないと分からない範疇であった。

副作用も人それぞれで、その強弱も実際に投与して初めて分かる代物だ。だから、抗がん剤は不要で、がん治療は身体を弱らせ寿命を縮めているというセオリーになる。これをすべてのがんとするから始末に負えない。


がんも最初から大きく、あちこちに転移して暴れている訳ではない。小さいものから徐々に大きくなっていくということは小学生でも知っている。それでは小さながん、すなわち早期がんと大きくなって進んだがん、進行がんでどのような差があるのだろうか。癌の種類によるが早期がんで切除した場合10年生存率95%もあれば50%もあるし、30%もある。この見極めがポイントである。それではその情報は何処にあるのか。がん登録をして日本の各種がんの早期から進行がんの10年相対生存率が国立がんセンターや対がん協会から次々と発表されている。


北さんの肝臓がんはその中であまり成績の良くない部類であるのも事実だ。北さんの肝臓がんのステージだと通常、5年生存率は16%から14%と膵臓癌と似たりよったりである。しかし、このデーターは10年前に診断を受けた人たちの成績であることに注目しなければならない。


今回の免疫チェックポイント阻害剤と分子標的治療薬は今までの化学療法のコンセプトとは全く異なった作用機序で、実際、その奏効率は60%以上期待される。となると、北さん、腫瘍マーカーは確実に低下している。CT検査はまだだが、期待が寄せられる。


がんに対しては効果はある、しかし、副作用は本人の予想以上に厳しいらしい、あるいは予想だにしなかったかもしれないようだ。こればかりは経験者でないとものが言えない。副作用を和らげる薬となると、またまた薬の量と種類が多くなる。どうする、辞めてしまうのか。


辞めないよね、北さん。口内炎は経験者でないと言えない。食欲不振も経験者しか言えない。どうしてあげれば良いか、私もお手上げです。その一つ一つの症状を和らげるであろう薬を処方しても所詮、気休めです。口の中が荒れて、そして味がなくなり、食欲が全くないなどの生活の質は落ちても、死んでたまるかのジャーナリストスピリッツを鼓舞するような文章で応援するしかないかな。

平成30年3月19日

2018年3月17日土曜日

副作用という伏兵

原寿雄を知っている現役のジャーナリストは今、何人いるだろうか。もちろん小和田次郎を説明できる若い記者はほとんどいないだろう。50年も前、ぼくが駆け出し記者だったころ注目されたこの名前は人気で彼の書『デスク日記』は大きな反響を呼んだ。

当時、共同通信のデスクだった原寿雄が「小和田次郎」のペンネームで書き綴ったマスコミ裏話である。裏話こそホントの話だから面白い。新聞記者やデスクはニュースの扱いで大きく見解が違う場合がよくある。特に政治記事は政治部記者と社会部記者では対立することが多々あった。デスク日記はその「書かれなかった」編集局内部の議論、対立を赤裸々に綴った。

デスク日記は1963年12月から1968年10月まで原寿雄独りで書いた。後日、みすず書房から5冊の本として出版され話題となった。今、読んでも新鮮で、まるでジャーナリストの教科書のようなスピリットに溢れている。多くの若い記者諸君に読んでほしい。

原は2017年11月30日自宅の付近を散歩していて倒れた。近所の人の通報で侃子(よしこ)夫人が駆け付けた時、意識はあったそうだ。夫人が肩を抱くようにして原を立たせ、自宅の方へ歩き出したところ老いた二人とも転んでしまった。救急車が原を乗せて病院へ運ぶ途中、救急隊員に「奥さん、ご主人はもう息をしていませんよ」と言われた。胸部大動脈瘤破裂で午後6時5分、原は逝った。享年92歳。

原寿雄は筑紫哲也とともにぼくがもっとも敬愛するジャーナリストである。

ぼくは自宅が同じ茅ヶ崎市だったこともあり、若い記者を連れて晩年の原宅をよく訪れた。耳が少し遠くなっていたけど頭はしっかりし、新聞も本もよく読んでいた。現役の記者やメディアに批判する姿勢が無いとよく怒っていた。

原は1923年3月15日、神奈川県平塚市で4番目の長男(実姉3人、妹1人)として生まれ、家が小作農だったため神奈川県立平塚農業学校に学ぶ。繰り上げ卒業して国鉄に就職、品川駅の改札掛となった。それでも海軍に憧れ2年で国鉄を辞め、海軍経理学校へ再入学。1945年8月15日敗戦を迎え、軍国主義が終わり、日本は民主主義の国となった。再度、東京大学に入学、自由のために生きたいと考えるようになった。

原は当時、軍国青年、20歳までに天皇のために死ぬ、と決めていた”天皇教”(原寿雄の言葉)だった。その誤りに目覚めこれからは自由に生きようと共同通信社へ就職したという話は本人から聞いた。社会部記者、共同労組書記長、新聞労連副委員長を経てバンコック特派員。編集局長、編集主幹となり、株式会社共同通信社社長を務めた。社会部記者時代、交番爆破事件を公安警察官がでっち上げ、その本人をつきとめインタビューした菅生事件(1957年3月)は有名。

3月10日、原寿雄を悼む<ジャーナリスト・原寿雄さんと現代のジャーナリズムを語る会>が日本プレスセンターで開かれた。会場は超満員、小股一平(元NHK社会部記者、現武蔵野大学客員教授)、青木理(ジャーナリスト)、林香里(東京大学教授)らが原のジャーナリスト精神について語り合った。
二次会の懇親会も超満員、九州・小倉から西山太吉(元毎日新聞記者、沖縄密約をスクープ)も駆けつけ、多彩なジャーナリストたちによる偲ぶ会となった。

ぼくは2005年8月5日、銀座の居酒屋で開かれた西山太吉を励ます懇親会で初めて原と会った。「えっ!あの小和田次郎が生きていた?」と心中、仰天したことを覚えている。人柄は温厚な老紳士だったが、ジャーナリズムの話となると生き生きとしてしかも厳しかった。

「ぼくは日本人として生まれたのではない。一人の人間として生まれたのだ」と原はよく言った。「ぼくは『国益』という言葉が大嫌いだ」とも言った。原寿雄は真の自由人、コスモポリタンだった。

現在、朝日新聞のスクープ記事で安倍政権が追い詰められているが、原だったら何と言うだろうか。権力監視をジャーナリストの本懐とする原寿雄は大きな声で「今がチャンスだ。安倍を退陣に追い込め!」と叫んでいるに違いない。

えっ!?どうして「ガンと生きる」と関係があるの?と聞く人はあまりぼくという人間が分かっていないんだなあ。ぼくもジャーナリズムのはしっくれにいたのだよ。LAから原稿を送っていたしテレビのレポートもやった。ちっちゃなテレビ会社を立ち上げ、2000本、LAでニュース番組を制作し放送したことなんて誰も知らんよね。

13日は早朝から沼津裁判所の検察審査会に出て、大阪へ行った。なぜか結構、疲れる。
抗ガン剤の副作用が出始めた。声がかすれる。食欲がない。メシが美味くない。口内が荒れて熱いものが飲めない。そうか、抗ガン剤には反撃する「副作用」という伏兵がいたことにいま気づき始めた。事態は意外と深刻の様相。想定外の事態である。前回書いた「健康な病人」はお詫びして返上したほうがいいかな。
鶴橋の安ホテルで明朝の病院通いに備えて眠る。

2018年3月9日金曜日

香葉チャンの戦争

大阪で失った、と思ってばかりいたスマホが出てきた。警視庁遺失物センターから連絡の手紙が届いてわかった。冷たい雨の中、飯田橋駅前の大きな歩道橋を転ばないように上り、トボトボ歩いて、遺失物センターへ受け取りに行く。

買ったばかりの黒皮のケースもスマホと同時に手元に戻った。
もっとも失ったと思ったからスマホは設定をすべて変えたので事実上、そのままでは使えない。なぜか、新幹線の車中で拾われてたそうだ。あと3日ほど待てば実損は無かったのだが、慌てて新しいのを買ったので見つかってもほとんど意味はない。何か使えるのかどうか。今日、ドコモの幹部だった人に会うから聞いてみよう。もっとも彼自身、よく知ら知らないと思うけど。

10時から上野公園で東京大空襲犠牲者の慰霊式。落語家の初代・故林家三平夫人、海老名香葉子さんが毎年、私費で主宰している。香葉子さんの子らはじめ柳家一門が総出でイベントの進行を担当する。

香葉チャンは東京の下町で5代続いた竿師<竿忠>の娘。魚を釣る魚竿を造る職人だ。1945年3月9日夜から10日未明にかけて落とされた焼夷弾でまる焼けとなり、一家は全滅した。幸い香葉チャンは沼津に疎開していて助かったが、すぐ上の兄と二人だけ生き残り、孤児として戦後を生きた。

香葉チャンとはちばてつや、森田拳次ら満州帰りの漫画家連中とハルピンを一緒に旅した。えくぼの可愛いおばあちゃんである。林家三平夫人と知ったのは後のことだ。

カーチス・ルメイについて一言書いておく。アメリカ空軍大将、空軍参謀総長。1906年11月、オハイオ州コロンバス生まれ。日本の家屋は木と紙でできている。焼き尽くす焼夷弾戦法を考案した好戦的な軍人だった。佐藤栄作はそのルメイを航空自衛隊の育成に功績があったという理由で叙勲(勲一等旭日大受章)した。意外と知られていないが人道上許せないのではないか。一晩で10数万人も非戦闘員を焼き殺した軍人である。

2018年3月7日水曜日

ニューヨークとサイゴン

今朝も珍しい人から電話があった、「元気ですか。(ガンは)大丈夫ですか」というガンを心配してくれる声。彼は1990年代後半、先に書いたゴアの”情報スーパーハイウエイ”がマスコミの流行語になっていた時代に知りあった。ニューヨークからLAに出張に来た時、現地駐在員が紹介してくれた。ぼくがニューヨークへ行くと時間を割いて付き合ってくれ、寿司屋のカウンターバーで飲んだ。同じ昭和16年の生まれだったことで大いに盛り上がった。以来、LAに来ると声をかけてくれた。

ニューヨーク駐在、日本最大の情報通信会社の現地米国法人の社長だった。京都大学卒の英才で元左翼。ぼくらの学生時代は左翼でないと人間じゃあない、という雰囲気に包まれていた。「学生の歌声に 若き友よ手をのべよ~」NYの寿司バーで酔った勢いで恥ずかしくもなく肩組んで歌った。

今は引退しているが、本ブログを読んだそうだ。

嬉しいじゃない。昔、ニューヨークとLAで時々、付き合った人がぼくのガンを心配して電話をくれる。「ガンも悪くないな」と勝手にほくそ笑んでいる。罹ガンしてぼくが病院で七転八転、転げまわって苦しんでいる、と想像している人がいるのかも知れない。それは誤解だ。(いや、もっと先のことか)

そんなことはない。「普通の生活」をしている。妙な表現だが、「健康な病人」なのだ。まさに「矛盾」そのもの。以前にも書いたけど肝臓は自覚症状が全くない。だから「怖い」とも言えるが、罹患もガンの進行も本人はまったくご存じない。痛くも痒くもなかったのである。

しかし・・・。ガンに罹ったことが分かった時点で、自分より周囲の人の反応が敏感だった。ぼくの肝臓ガンに仰天している。いろんなコンタクトがあって、「いい機会だ、北さん、この際ブログを始めたら」と勧めてくれたのが在阪のジャーナリスト・池田知隆だ。昨年晩夏、サイゴンのマジェスティック・ホテルの屋上バーだった。

ワインを飲みながら話した池田は、毎日新聞で「余録」を書いていた記者だった。三井三池炭鉱の町の駅前の自転車屋の息子、というのもいい。1949年熊本県生まれの団塊世代。戦後、新設された国立有明工業高等学校電気工学科に進学、早稲田大学政経学部に移ったという新聞記者としてはちょっと変わり種。ホームページ作りは独学だそうだ。

彼が主宰している大阪自由大学のサイトを見て、「あっ!これ、オレがやりたかったサイト」と思わず叫んだ。そこから大阪参りを始めて、池田にいろいろ教えてもらった。ブログを始めたらいろんな反応がある。もちろん読んでくれているのはぼくの知人友人。そして彼らもまた老いを生きる現実に(思いのほか)悩んでいる。

真っ赤な地色に黄色いハンマーと鎌が描かれたベトナム共産党旗が暗い夜空に揺れていた。サイゴンは金儲け目当ての投資家で溢れていた。ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)がアメリカと戦ったメコンデルタのトンネルは観光客で賑わっていた。池田は元全共闘議長・山本義隆らの山崎博昭(京大文学部1年)君虐殺50周年の弔問団に参加したのだった。

ベトナム戦争とは何だったのだろう。
池田に会った時、ぼくはまだガンが体内で成長していることを知らなかった。

2018年3月4日日曜日

ベンチャー・キャピタル

昨日は33ひな祭り節句だが今や雛人形はテレビ液晶画面で観る時代となっている言えば数年前北海道江差町へ講演に行った時街中雛人形を集めて観光客用に町家に飾っていた最早ごく普通家庭で飾る女子も地方にはいなくなった季節感を感じさせるもがテレビでしか見られないといはつまらない世中だと思

春一番訪れで一時マンション周辺は烈風に晒されたそれでも水が温んだだろ今日は一気に気温が上がって初夏陽気春はまだ浅いけど新緑膨らみを感じ小さく胸が動く四季が巡る日本列島は年中好天気カリフォルニアより風情があっていい間もなく桜が華やかに咲くだろう

今季寒さは厳しかったなあ新幹線で大阪から米原周辺を通過する時大雪に阻まれ名古屋駅手前で数台列車待ち小田原に着いたが午前1時近くでもちろん終電車は終わっていたやむなく小田原からタクシーで茅ヶ崎まで帰ったことはすでに書いた

朝食を終え血圧を測り抗ガン剤降圧剤を飲んだところで電話が鳴った昨年九州大学教授を退いた敬愛している産学連携専門家日本開発銀行今は日本政策投資銀行LA首席駐在員谷川徹だった1995年から数年シリコンバレーで毎月新しい情報通信技術勉強会をやっていた仲間であるアルゴア・ジュニア米国副大統領が提唱した情報スーパーハイエイをなんとかキャッチアップしたい

1994
111UCLAカリフォルニア大学ロサンゼルス校で開かれたテレビ芸術科学アカデミー主催スーパーハイエイサミットで基調講演したゴア上院議員スピーチは感動的な内容だった

ゴアはデジタル革命とい言葉を使い次によに語った
もし自動車が近年に見られるコンピューターチップと同じくらい急激に進歩すればロールスロイスなど25セントで時速100万マイルくらい走れるよになるだろ

そしてぼくらが持っているスマホはそれ以上パフォーマンスを実現している

いま茅ヶ崎駅だが・・・とい谷川メッセージに慌てて返事をしタクシーを呼んだが混んでいてすぐ来てくれないやむなく外へ飛び出し車を探す日曜街を流しているタクシーなんかいるはずがない都合いいことに路線バスがやってきた10数分待たせて谷川と会九大で会って以来7年が経っていた彼はどこも変わっていなかった

谷川は開発銀行当時で竹中平蔵総務大臣郵政大臣などと同期生年代東京大学入学試験が紛争影響で無かった開銀後に名を変えたがLAに駐在員事務所を開設した、当時問題だった日米の貿易摩擦対策として米国からの対日投資を増加させ、また絶好調の米国経済の背景を探る拠点とするためだった。シリコンバレーがこの頃インターネットやベンチャーの勃興で世界の注目を浴び、そのフォローアップは重要な任務だった。初代は小門裕幸後に法政大学教授小門も谷川も若く意欲的とても張り切っていた

その後谷川は帰国して人事部から地方運輸会社副社長ポストを示されたなぜ自分が・・・米国、いや世界の経済を牽引するシリコンバレーのメカニズムや、ベンチャービジネスの本質を日本に紹介しよと熱い思いでいた谷川には、とても承服できる人事ではなかった自分の思いを実現する為には自分で道を切り開かなければだめだと辞表を出したら人事部長が顔色を変え慌てたそ現職部長が、提示された人事案件を拒否して辞めるとい事態が開銀では例ないこと開銀人事のメカニズム、組織秩序の否定に繋がるからだ。

幸か不幸か谷川夫妻には子供がいなかった夫人もあなたがやりたいことをやったらいいじゃないと辞めることに同意してくれた彼は再渡米しままスタンフォード大学客員研究員としてシリコンバレーやベンチャー研究を続けた突然退職を心配したぼくは新宿駅上階喫茶室に呼び出し、「生活は大丈夫かと訊いた
北さん、毎日が晴天下で暮らしているよ晴れ晴れとした日々ですよ
谷川は本気で両手を挙げ楽しそに伸びをしたそんなに息苦しい気持ちだった。組織を離れて長いぼくは谷川の気分を忖度し、彼が今、味わっている解放感を柿間見た。日本の大企業の幹部を経験した人間の本音に触れた気がした
老婆心とはこのことか。ぼくはすっかり安心してLAに戻った

彼はスタンフォード大学を経て九州大学総長からの要請を受け、総長補佐正教授となり九州大学産学連携の中核組織、知的財産本部を創設九大技術をビジネスに結び付ける産学連携仕事で実績を上げたまた学生にベンチャー・スピリットを与え応援する組織、ロバート・ファン/アントレプレナーシップ・センターを起ち上げている。昨年春勇退これからもやりたい産学連携や若者への教育を続けるそ谷川が取り組んだ産学連携や教育こそベンチャー・スピリット具現化だった

ロバート・ファン・センターの開所式にはぼくも参加した。キイノート・スピーカーはベンチャー精神溢れるパソナの南部靖之だたった。南部とも久しぶりの再会。予期せぬ場だったことで南部も目を丸くしていた。東北大震災で東北一帯が大津波に呑み込まれ、福島原発が溶融したのはそ、れから間もなくだった。奇しくもぼくは発生の瞬間もまた東京・大手町のパソナ本社にいた。6時ころだったと思う。南部が本社にやって来て、翌朝未明までテレビを眺めながら大自然のエネルギーを二人で語り合った。
何事も慎重で組織論理が優先する日本ビジネス社会でベンチャー意味を正確に理解できる人材は多くないそこに谷川苦労があったろそれだけにやりがいもあったに違いない余談だがボストンMITマサチュセッツ工科大学でマスターディグリー修士号を取得イギリス技術会社経営をやっていたぼく高校同級生・綾尾慎治が九大で谷川と一緒にベンチャー支援事業を手伝っていた偶然には驚いた。博多で楢崎弥之助(元衆議院議員)らと一緒に飲んだ。不思議な縁だった。

ガン話からすっかり離れたけど谷川がわざわざ遠い茅ヶ崎まで見舞いに来てくれたことは嬉しかった二人は夢中になってLA思い出やシリコンバレーで勉強会SVMF(シリコンバレーマルチメディアフォーラムなど30年前過去と現状を語り合った。周囲にぼくガンなんか気にする者なんて誰もいないもちろんぼくは一向構わない。ガンのお陰で予期せぬ人と楽しい時間が持てた

芥川賞受賞作家開高健がお気に入り蕎麦屋に案内した。谷川は天ぷら蕎麦を、ぼくは大好きなカレー南蛮蕎麦を注文したがやはり味なく大量に食べ残した抗がん剤副作用で味覚が麻痺しているは悔しい明日は茅ヶ崎病院で診察がある味覚現状はきちんと訴えよ