2018年5月15日火曜日

北岡和義のHPに移動します

これまでブログに書いてきた内容「ガンと生きる 北岡和義残命録」を北岡和義の公式ページ(http://kitaokanet.main.jp/)に移動します。すべてそちらで読めます。

2018年5月14日月曜日

児玉隆也の時代と

駆け出し記者だった札幌のころ同年だった友人からメールを貰った。彼自身もガンで難しい大手術を受けたが今は回復して元気である。
「児玉隆也が書いた本が面白いよ」という情報をメールでくれた。
その返事が以下です。
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貴兄のご教示ありがとうございました。

児玉隆也の『ガン病棟の九十九日』、アマゾンで取り寄せ読みました。驚いたことにこの書が書かれた1975年から43年経ったというのに患者の受けとめ方はほとんど変わりません。観察の鋭さ、巧緻な文章、奥さんとの会話などまさに名文家・児玉隆也の面目躍如でしょうが、結局、彼が書いていることは「ガンに魅入られた患者の死への恐怖」なのです。それを2018年の現在もぼくを含めたガン患者は笑い飛ばすことができません。

漠たる不安、忍び寄る死への怖れ、家族への気遣い・・・様々な制ガンの方途、ガン細胞発見の技術、最新の術式、制ガン剤の飛躍的進化などこの40年間に医学と医療技術は目覚ましい進歩をとげたというのに、です。事実、ガンに罹っても延命は著しく伸び、すぐ死ぬ人は少なくなってきました。ぼくに「ガンは治ります」「早く治ってまた一杯やろうよ」というメッセージを送ってきた知人、友人が少なくありません。でもガンは今も治らないんです。

ぼくが戸惑ったガン治療に対する疑念は児玉隆也が直面した「怖れ」「戸惑い」とほとんで変わっていない、ということです。ああ、これがガンなのか、とようやく理解するのに3~4か月を要しました。そして現在も解決方法はありません。副作用著しい抗ガン剤をただ飲み続けるだけ。止めたら「死ぬだけ」としか医師は言いません。

医師は医療技術の進歩を熟知していますし、ガンへ向き合ういろいろな制ガンの方途も昔に比べ飛躍的に開発されてきているのに現実に患者と向き合う時は「分かりません」と言い切ります。

確かに医療事故訴訟が増え、病院が必要以上に防衛的になっています。ですから「予見」的なことはほとんど口にしないし、逆に予見する場合は最悪のケースを例に出します。

ぼくのガンも最初、主治医は「ステージ4、昔なら余命3か月から6か月」と言い切りました。ぼくはその医師の指示通りに入院し、手術を受け、退院してからは大阪の大学病院へ治験治療に向かいました。その医師は日本で肝臓ガン治療で最高の技術を持っていると評判で、彼を知るぼくの親友の外科医も「北さん、それはベスト・チョイスだよ」と当初言いました。

そして事実、ガンの腫瘍マーカーは劇的に落ちてきているのにいつ治療が終了するのかを訊くと「分かりません」

今になってその治験治療が「(抗がん剤の効果が出ている限り)永遠に続く」と言うのです。そこでぼくは自己撞着に陥り「すごく落ち込んだ」わけです。茅ヶ崎から大阪へ通院するには旅費だけで1回、新幹線代とホテル代で2万5,000円はかかります。すでに50万円近くかかったでしょう。これからいつまで続くのか。何度聞いても「抗がん剤の効果がある限り」ず~っと続けると言っています。

児玉隆也が肺ガンに罹った時点から40年以上経って、医療技術は驚くべき進歩をしているのに患者に対してはほとんど同じ対応です。で、患者は戸惑い、死への恐怖が迫るのを実感する。そこが「ガン」という奴のややこしい、難しいところです。そして、以前書いた「黄金のワラ」が蔓延る余地を残しているわけです。

児玉隆也は『寂しき越山会の女王』を書いて有名になりましたが、ぼくは赤紙1枚で戦場へ狩り出されたお百姓やパン屋さんや庭木の職人、床屋さんらの人々を訪ね、戦場へ送られる将兵たちを丁寧に描いた『1銭5厘の横丁』の方が好きです。

ぼくが買った『ガン病棟の~』の古本には「16刷」とあります。売れたのですね。ガンは未だ「解けない方程式」だという事を知り、今は開き直っています。酒も止め、美味しくない食事を無理やり押し込め、時間がくればきちんと抗がん剤を飲み続ける。生きる、死ぬかを堂々巡りしないという覚悟です。

そんなぼくを多くの知人友人は「頑張れ」と声を掛けてくれる。
嬉しいじゃあないですか。ボタンが閉まらず棄てようと思っていたズボンがいま、ぴったり。ずいぶん痩せたなあ。

2018年5月11日金曜日

要覚悟

アメリカから電話をもらいました。LA在の親友のドクターです。
制ガンのプロはぼくの症状をよく知っていて、頑張るしかない、ということ。泣き言は言わない、と決めていたのですが、ガン患者の陥る自己撞着ですね。ぼくに必要なのは覚悟です。弱音は吐かない。

今朝から元気回復。食事も自分でつくり全部食べるようにしています。首回りが苦しくて着ることができなかったシャツがちょうどいいサイズになりました。都内に取材に出かけ早目に自宅に戻りました。

2018年5月10日木曜日

深刻な事態の深刻

今日はかなり悲観的な報告です。9日、定例の診察日。朝から病院へ行き、採血、採尿、血圧測定などが行われ、肝臓医の診察を受けた。主治医が不在で若い医師が代診。前回とまったく同じ内容で進展ナシ。

腫瘍マーカーはさらに落ちているから抗がん剤の効果は明らかにある。しかしいつまでこうした状況が続くのか。ぼくの疑問に医師は「分からないねえ」としか答えない。治療開始から3か月経ったが先行き不明。

グングン不安が広がる。だって毎月2回、大阪へ通院しているのだが、いつまで続けるのかと質問すると医師は「さあ、分かりませんなあ」としか答えない。ぼくの胸の内に暗雲立ち込め大きな疑念が沸き上がる。

まさにガン患者の典型的な”症状”が現れ始めた。罹患以来初めて落ち込んだ。治験を止めれば未だ体内に残っているガン細胞が再び暴れだす。再発の場合、ガン細胞の成長が早いそうだ。「まず年内はもたないだろう、な」と肝臓医は軽く言う。まるで脅迫されているような気分になった。

逃げ込む場所がガン患者にはない。選択肢はまったく無い。死を待つだけ。それはガンが発見された時から変わっていない。否、抗ガン剤を飲んでガン細胞が一部消え、存在するガン細胞も小さくなっているから事態は改善されているのは間違いない。

「多分、何もしなかったら北さん、今頃、生きてはいないよ」と主治医はケロリとして言う。抗ガン治療で改善されているのだからさらに続けてガンが消えるまで頑張ろう、と言われた。

しかし・・・これまで使った経費の累積額もかなり高額になってきた。このまま続ければ兵糧が底をつくのは明らかだ。深刻な事態である。深刻な事態はさらに深刻、深刻。友人の医師も「(抗ガン治療を)続けるしか助かる道はない」と言う。最低でも6か月はかかります。ということは夏まで今の大阪通院を続けるのが唯一の助かる道だという。

考えても考えても妙案はでない。逃げ道が塞がれている。ガン患者が必ず出会う場面である。馬に喰わせるほどどっさり薬をもらって茅ヶ崎へ深夜戻った。もっとも抗がん剤の効果は現れているのは事実で、悲観することは無い、とも思う。

風呂に浸かってしばし黙然。取りあえず夏まで頑張るしかないか。




2018年5月8日火曜日

恵美須町のゲストハウス

浜松で途中下車、ガン・サバイバーの山口雅子さんと会い、1時間ほどガンについて話し合った。やはり経験者の話には迫力がある。説得力も十分だ。彼女は乳ガンと肺ガンを体験した。何しろガンに詳しい。いろいろガンについて相談も受けている。浜松在のジャーナリストだが、今も元気に取材をし原稿を書く。以前、NHKの番組「クローズアップ現代」に出演したことがある。

彼女と別れて浜松から新幹線で新大阪へ直行。地下鉄に乗り換え、淀屋橋で大阪自由大学の講座に顔を出した。スピーカーは元日経記者。大阪生まれ、京都大学卒の大阪通。古くからの大阪の街の成り立ちを経済と人物を絡ませて話した。

大阪は商人の町と言われるが、「学者になった金持」が理想の風土だという。う~ん、よく分らん理屈だけどなんとなく視点がユニーク。聴衆は35人ほど。盛況だった、と幹事役はニコニコ顔。

東京ではなかなか聞けないなあ。講演が終わって自由大学のボランティア幹事らと隣の喫茶店に移った。コーヒーをセルフサービスで取り寄せ、元朝日、元毎日記者らと話し合った。それぞれサムライ的人物ばかり。”自由人”という言葉がぴったりの浪花の連中だ。妙なエリート臭さが無いのが気にいった。

地下鉄堺筋線で恵美須町のゲストハウスに向かう。インターネットで予約した宿は「Funtoco Backpackers Namba」と妙ちくりんな名。フロント係兼部屋への案内係兼経営者は西沢翔太郎という。「Fun(楽しさ)がいっぱいのバックパッカーたちの宿」という意味だそうだ。

1泊2,000円に魅せられた。西沢は29歳、夫婦で経営している。客の9割が外国人。ぼくが話したのはオーストラリア人とドイツ人。言葉は英語。西沢も英語が上手い。近畿大学卒だそうだ。今夜の日本人客はぼくともう一人の若い女性、二人だけだった。

元々、町工場をゲストハウスに改装した。新しいから内部は奇麗。泊まれるベッドは全部で25人分、月平均7割の利用率だという。1ベッド2,000円だから一晩の売り上げは平均35,000円から4万円ほど。月額100~120万円の売り上げになる。初期投資分や減価償却を差し引いても若い夫婦の収入としては決して悪くないと目算した。

大阪だけでこのような外人目当てのゲストハウスが100軒を超えるそうだ。京都はもっと多いという。部屋の掃除とシーツの洗濯、フロントの受付すべて西沢本人がやる。ベッドは上下二段の蚕棚、トイレ、シャワーは共通、宿泊者が自由に使えるキッチンもある。大部屋の居間にテレビはない。

全館禁煙。フロントの後の壁に洋酒が並んでいる。客が利用できる簡易バーというのには笑えた。外国人のバックパッカーたちはこうしたゲストハウスを拠点に1~2週間滞在して京都や高野山や大阪を観光して歩く。

近年、このようなゲストハウスが大阪、京都をはじめ列島中に続々、誕生している。部屋代も安いが経費も掛からない。インターネット時代の特質を考えた若者のニュー・ビジネスと言えるかも。

日本は初めての訪問、という髭面のドイツ人と話したが、「いい国だねえ、ニッポン」といった表情。日本はぼくらの青春時代と比較できないほどすっかり変ってしまったね。貧しさの質が違う。ぼくが馬齢を重ね後期高齢者になるはずだ。

明日は7時起で早朝から病院。検査と点滴。主治医の診察がある。こうした日々がいつまで続くのか。ガン発見から5か月を迎える。多くを学び、抗ガン剤の副作用に十分苦しんだ。

2018年5月7日月曜日

余命3か月のウソ

昨年暮れ肝臓にガンが見つかった時、医師は「ステージ4。昔なら余命3~6か月」と診断された。その時、ぽか~んとした自分。以降、治療を受けるにつれ副作用がきつく、食欲が減退したことはすでに書いた。5か月経ったけどぼくは生きています。

近く首都圏在住の高校の同級会があるのだが、幹事が「北岡君がガンだから彼のスケジュールを優先する」と案内に書き、念の入ったことに「特別メニュー」をオーダーするという。「止めてください!」とぼくは強く抗議した。ガンに効く特別メニューなんてあるはずがない。

昨日6日、今日7日、食べることに最重点を置き、食べ残すことを止めた。これで少しは痩せるのを阻止できるかもしれない、とけなげな気分。
明日は浜松でガン・サバイバーに会います。ガンになって3度目。LAで会ったことがあるのですが、帰国後、ぼくが日大の教員となって、静岡市で現役の記者らを集め勉強会を開いたらそこへ彼女が顔を出した。

少しづつLA時代を思い出し、浜松で会ったら彼女が3度ガンに罹ったことを知った。ご主人もガンで亡くした。なのに彼女はピンピンしている。そこがガンの不思議、面白いところ。彼女からもらった文庫本が凄い。ノーマン・カズンズ著『笑いと治癒力』(岩波現代文庫)

第二章に「神秘的なプラシーボ」というタイトルがあって、そこを読むと「プラシーボ」という偽薬(何の効用もないニセ薬)の存在が詳しく書かれている。病気になって病院へゆくとプラシーボと本物の製薬とを別々の患者に与えると治った結果は同じ、という研究論文があるそうです。ウソみたいなホントの話。

人間には体内に「医者」がいて、それを呼び覚ますだけで大抵の病気は自分で治すのだそうです。抗がん剤であろうが、偽薬であろうが結果は同じ、というデータの蓄積と分析が学会で発表され、大いに驚かせた。今ではそのプラシーボの研究が進んでいる。

著者・カズンズはアメリカ人ジャーナリストですが、アフリカの占術医の話がめちゃ面白い。中国の漢方医も同じでしょうが、近代医学に比肩する実力がある。このプラシーボの話、いずれ詳しく書くね。ジャーナリストって、けっこうおもしろい商売だよ。

明日は朝が早いからもう寝よっ!

2018年5月6日日曜日

美味いか銀ダラ鍋

大阪通いも4か月半に及びガンもかなり縮小したようです。でも相変わらず食欲がありません。こうした状況がいつまで続くのか先行き不明。お医者さんは「永遠」とか言っています。(冗談じゃなあないよ。オレ、やること、やりたいこといっぱいあるのに…)

この1週間、相変わらず副作用に苦しめられ、最近は抗ガン剤の「副作用」ではなく抗ガン剤の「本作用」ではないか、とさえ思えてくるのでした。そろそろ転換を図りたいのですが、9日の診察で主治医がどう判断されるか。楽しみでもあり不安でもあります。

「ガン」は当初、なかなか見えなかったけどこれだけ経って来ると時々、その正体の一部を捉えることができます。確かに不思議でクレバーな病気です。賢い対応をすればガンは縮小し、バカな対応には暴れまくる。

当初、健康で元気だったのにガン専門の名医にお世話になって以来、体に不具合が起きてきました。これ、医原病?

中でも味覚が失われたことの”恐ろしさ”。食べられない。食べたくない。だから見た目に痩せてきた。鏡を見てギョッとする。これじゃあ生きる望みがないよ。生きている意味がない。この間、多くの友人、知人が見舞いに来てくださいましたが、この「食べたくない」気分は体験者でないとなかなか説明しにくい。

だから無理矢理、食べて吐いた。でもここ2、3日は大丈夫。吐き気が薄まった。

昨5日夜、鍋を思いついた。北海道の昆布でダシを採り、銀ダラとホタテ、豆腐とコンニャク、長ネギ、小松菜やガンモも入れて鍋でぐつぐつ煮ました。結論。
美味しくない。食べられない。多く食べ残した。

今朝起きて昨夜の鍋の残り物を網で漉して、ダシの出たスープだけを沸騰させ、ご飯を入れてさらに炊いた。生卵を混ぜこみ、味付けし、細かく刻んだネギを入れ、最後に昨夜の残り物の豆腐やガンモ、ホタテなどを乗せ、雑炊にして食べた。美味しかった!

明後日、大阪へ行く。浜松駅で途中下車する。ベテランのガン・サバイバーが待っている。彼女がくださった本に大きな衝撃を受けたから。

2018年4月30日月曜日

ガンも地震予知も

桜が終わったというとマンションのつつじが一斉に咲きだした。春爛漫とはこのことを指すのだろう。思いっきり咲く満開の花を見ていると青春謳歌の時代を目にしているよう気がした。オレにもこんな時代があったなあ。
最近、古い映画を観ていると田舎の風景や(オレたちの時代の)学校の校庭、最近見かけなくなった魚屋や八百屋での買い物など見ていると懐かしくてなんとなく涙がこぼれてくる。
4月25日の診察でガンマーカーがぐんと下がったことを書いたが、現実に多くあった小さいガンが消えている。やはり朗報であろう。だからと言ってガンから逃れられたのではない。ここがガン患者の複雑怪奇なところ。主治医は抗がん剤投与を続けることを指示。1日の投与量をさらに減らしてくれた。

にもかかわらず抗ガン剤の副作用は相変わらずで味覚が失われ、食欲がないことがつづき、体重が減って痩せてきた。5キロは痩せただろう。身長161センチの短躯だから普通の身体だったら7-8キロというところか。風呂に入ると「痩せた身体」がよく分かる。あまりいい状況ではない。しかも27,28日と朝、二度吐いた。吐いた後、静養して本を読む。

『浜岡原発の選択』(2011年5月、静岡新聞社刊、復刻阪)を読んでいると原発の未解明部分がよく見えて、ガン治療の相似を思う。要するに現代の科学では解明しきれないことが多いのだ。とりわけ使用済み核燃料の処理方法が全く分からない。

想定外ではなく、当初から「(処理方法は)分からなかったのである。従って福島県内に膨大な汚染土などがそのままビニール袋に投げ込んで並べ、放置してある。一度拡散した放射能は周辺の住民を退避させただけで7年が経った。朝日新聞記者・青木美希が『地図から消される街』(講談社現代新書)を書いた。3月20日の発行で、すぐ送ってくれた。

青木は元々、北海道新聞記者だった。北海道警裏金キャンペーンで菊池寛賞、新聞協会賞を受賞した裏金キャンペーンの実力は記者、キャンペーンはいろんなマイナス面が表面化した。強制的に取材班がばらされ、青木は道新を辞めた。朝日に移ってから311福島原発被害の特別取材班に入り、原発被災地を歩き回った。一児の母親ながら男勝り(これ、差別語ならゴメン)、フットワークのいい新聞記者らしい記者だ。女突破記者と言える。

静岡新聞の鈴木雅之記者からは『沈黙の駿河湾』(静岡新聞社刊)という本送ってきた。「東海地震説40年」という副題がついている。この書の冒頭、地震予知を前提とした大規模地震対策特別措置法が現状にそぐわないことを指摘している。

1994年1月17日午前4時30分、ロサンゼルスのノースリッジを襲った大地震、翌年同月同日同時間、神戸を直撃した阪神淡路大震災。その時、ぼくは世界的な地震学の権威、カルテック(カリフォルニア工科大学)の地球物理学教授、金森博雄博士を取材した。

金森博士は「現在の科学では地震の予知は不可能」と言い「この地球という惑星が生きている限り地震から逃れられない」と断言した。地震対策とは「イチ早く逃げて被害を最小化すること」

これは津波に繰り返し襲われた三陸地方の昔からの”教え”「てんでんこ」だ。「津波てんでんこ」「命てんでんこ」~津波が来たらてんでばらばら逃げろ、命は自ら守れ。要するに「逃げて逃げて逃げまくれ。安全な所まで自分で行け」という教えである。

日本の国会では「予知連は何をしているのだ」と声高に議論していて、ぼくは違和感を覚えた。神戸が襲われた時、一時帰国したぼくが受けた違和感は今も胸に存存している。

「(ぼくら取材陣を指して)あんたら地震が怖かったら月へ行けばいい。あそこは死んだ惑星だから地震はないよ」冗談とも言わず、生真面目な表情で言われた金森博士を今も鮮明に覚えている。ガンも同じ。分からないものへ科学が挑戦するのは頼もしいが「克服」はできない、というのが現状である。

現実を取り間違えてはいけない。ガンは治らない。その認識から出発することこそ大事。副作用は少し楽になった。


2018年4月26日木曜日

抗ガン剤の効果

4月24日の夕刻、天王寺・都ホテルのロビーで泗高の同級生と会った。小雨の中、遠くから足を運んでくれたのは柔道部でともに汗を流したO、ぼくと同じ小・中学の同級生だった。奈良女子大で数学を学んだM子も来てくれた。高校時代から同じクラスでおとなしい優等生だった。それに総合電機メーカーのサラリーマン夫人となってオーストラリアで暮らしたH子。三重県ではトップクラスの四日市高校には優秀な人材が多かった。

前回書いた「四日市に捕虜がいた」話や戦後の歴史、ぼくのガンの状態、モリカケ騒動や女性記者にセクハラなどで揺らぐ安倍政権など3時間を超え話が弾んだ。同級生とは不思議なもので時空を飛び越えて話し合える存在だ。しかもそれぞれ卒業後の生活はまったく接触も関係もないのに。

ぼくは長年、ジャーナリズムという世界で生きてきた。新聞記者、国会議員秘書、フリージャーナリスト・・・アメリカではテレビ番組を制作し、マイクを持ってレポートした。長いアメリカ生活を終えて2006年8月帰国した。ちょっと特異な存在と言えるかもしれない。M子とは卒業以来だから数えてみたら58年ぶりという時間が過ぎた。それでも親しく会話が弾む。会話に夢中になって少し疲れた。

翌朝早く病院へ向かう。いつもの通り採血、採尿を終え、主治医の診察となった。ガン(腫瘍)マーカーが治療を開始した時点に比べると10分のⅠほどガンが小さくなり、一部は消えていた。さすが抗ガン剤を呑み続けた効果が数字となっている。CTの画像を見ながら医師が説明する。

「かなりいいねえ。(抗ガン剤の)効果が出ているよ」

嬉しいニュースだ。激しい副作用を訴え、さらに投薬量を減らしてもらった。親しい友人の医師に電話でマーカーの数字を話すと「取り合えず目前の”死”からは脱出できたのではないか」と言ってもいいそうだ。新大阪でテレビのディレクターをやっていた友人と会い午後6時16分発の「ひかり」に飛び乗った。9時10分すぎには茅ヶ崎へ着いた。

2018年4月21日土曜日

幻の捕虜収容所

横浜の人ならたいていの人が知っていると思う。横浜駅はJRと東急、京急、相鉄、地下鉄が集中している総合駅である。JRの中央改札口を出たすぐ側に赤い靴の女の子の像がある。台座こそ1メートルあるが、女の子像そのものは30センチもないちっちゃな可愛い像である。その脇で手を振った女性が約束のLAから帰国したノンフィクション作家・徳留絹枝だった。20年の歳月を感じさせない正義感溢れる清楚な女性である。

彼女のことは本ブログ、4月6日付の「制ガン剤再投与」で少し書いた。20年ぶりの再会だった。これこそ”ガンのお陰”だろう。彼女はLAに長く住み、二人の子供を育てた。ご主人をガンで亡くし、自分も乳がんの手術をしたことがある。ブログでぼくのガンを知り、帰国直前にわざわざ見舞いに来てくれたのである。茅ヶ崎まで来るというのを止め、ぼくが横浜まで出かけた。羽田から帰米する直前だった。駅に隣接しているホテルで話し合った。

彼女がホロコーストのサバイバーとのインタビュー『忘れない勇気』という本を持ってぼくのLAの事務所に現れたのが1998年1月22日。それ以来、ゆっくり話した記憶がない。彼女はぼくの出身地、四日市で第二次世界大戦下、捕虜収容所があった、というメールをくれた。ぼくはもちろん四日市の同級生や先輩も誰も知らない。歴史に隠されていた秘話である。夢中になって幻の捕虜収容所の話で、3時間近くがあっという間に過ぎた。

偶然なのか必然なのか。この話はもっともっと取材を続けてから詳しく書きたい。ガンが取り結ぶ縁と言っていいだろう。戦時下の捕虜たちは石原産業に600人いた。あの、四日市公害の元凶とも言える大きな会社である。米兵が300人、英兵が200人、オランダ兵が100人敗戦時までいた。

やはり歴史は今に繋がっている。捕虜の世話をしたのがぼくの四日市高校の先輩、瀬田栄之助。優しい男で、亡くなった捕虜たちの慰霊碑を建てた。彼女はぼくが学んだ南山大学に招かれ彼の話をしたそうだ。そしてその話が教科書に掲載されたという。
驚きの連続だった。

制ガン剤の副作用は相変わらずである。

2018年4月20日金曜日

元総理夫人

4月19日10時過ぎ、立川駅で砂川闘争のリーダーだった故宮岡政雄の娘さんとお茶を飲んだ。立川と言えばやはり米軍基地と砂川闘争、そして伊達判決です。1959年3月30日駐留米軍は憲法違反という違憲判決が出て、大きく報道された時、一番慌てたのがアメリカです。これでは在日米軍は全て追い出されてしまう。

ダグラス・マッカーサーJR.大使(GHQ連合国軍最高指令長官のマッカーサー元帥と同姓同名、甥にあたる)は藤山愛一郎外務大臣を大使公邸に呼びつけ、藤山外相に最高裁へ跳躍抗告を示唆した。その機密文書が米公文書館で公開され、日本人ジャーナリストが2008年に見つけた。しかもマ大使が田中耕太郎最高裁長官と会談したことも分かり、これは憲法37条(裁判を公正に受ける権利)違反だとして訴訟となっている。

立川は松本清張の『セロの焦点』の一方の舞台であり、米軍基地の街として有名だったが、今では東京のベッドタウンであり、昭和記念公園というイメージに変わった。歴史はどんどん場面を変えてゆく。その中で、米軍の滑走路の延長線上にあった宮岡の農地が今も残っている。そこを「平和のひろば」にしたいと教師だった娘さんは頑張っている。ぼくは友人の書家に書いてもらった「出会絶景」という書を贈った。

この後、都心向けて中央線を走り、スマートな和食店で元総理夫人と会食した。安倍首相の昭恵夫人がマスコミの関心の的になっているので、総理大臣夫人経験者の見解を訊いてみたいと考えたからである。10年以上前、LAから帰国した際、深夜まで彼女と飲んだことがあり、久しぶりだったが変わっていなかった。昼食をとりながら3時間、いろいろ話し合った。歯切れがいい。そこへ友人のS市長から電話。

「北岡さん、マリコは2年前、カリフォルニアで亡くなっていました」

マリコ・ミラー・テラザキ(寺崎まり子)は外交官、寺崎英成とアメリカ人女性、グエン・ハロルドの娘で、日米混血。ワシントン大使館に駐在していた寺崎英成と実兄が外務省にいて「マリコ」を暗号名に使って交信していた歴史をノンフィクション作家・柳田邦男が『マリコ』というドキュメントとして上梓している。まさに昭和戦争史の隠された逸話である。寺崎は戦後、昭和天皇の通訳を務めたことでも有名だ。

ぼくは以前からマリコに会いたかった。10年近く前、『文藝春秋』のエッセイ欄に彼女が書いていたのを読み、できれば日本へ招きたいと真剣に考え、S市長と話し合っていたのである。この話は別途、詳しく書きたい。

改札口で別れる時、元総理夫人に言った。「最近のメディアは確かに劣化していますが、真面目で優秀な若い記者が少しいます。いい記者には会ってあげてください」

2018年4月18日水曜日

ガンの不思議・不思議のお話

「ガンは治ります」「私の友人はガンになってもう10年になりますがぴちぴち生きています」「13年前、ガンになりましたが、今はなんともありません」・・・
いろんなコメントをいただきました。全て正しい。事実でしょう。
にも拘わらず「ガンは治らない」という専門家の見解も正しい。矛盾なのでしょうか。
そうじゃあない。どれもこれもそれぞれの立場で言っているのであって、それぞれ正しいのではないだろうか。

ぼくは?

ガンは治らない。でも「ガンと(仲良く)生きてゆけばいい」それがこのブログを始めた真意です。
そして実に多くを学びました。ブログを真剣に読んでくださる人、ちらっと読んですぐ離れる人。初めて読んでコメントを下さる人。もちろん読まない人がほとんどでしょうが。
まさに人さまざまなのです。

ただ「ガン」といううす気味悪い病気の怖さを皆さん意外とリアルにご存知で、「北岡の命も長くないなぁ」と心中、思っている人が多いと思う。だってぼく自身、友人がガンになった、と聞いてまず考えたのが、「そうか。あいつも長くないな」と思ったもんね。でも彼、彼女は今も元気に生きている。逆に全くそんな視野に入っていなかった読売同期のH君や四日市・富田浜の竹馬の友・N君の訃報を突然、聞き、驚いてお参りに行ったのも最近の話。

Hは新人で読売の金城湯池、千葉支局で一緒だったが、鼻筋がとおり肌白く、もう「真面目」の教科書のような男で長く整理畑を歩み、定年まで記者生活を全うした。ぼくが読売を辞めた後も断続的に付き合ってくれた。彼の姪がアメリカへ留学し、LAの自宅を訪ねてくれたことがある。美しく清楚な女性で、専門は「英語」、留学で英語力を磨いて帰国後、九州で高校の教師をしている。

整理記者は読者にとっては目立たない地味な仕事だが、ニュースの大小、見出しや写真の扱い次第で読みやすく新聞が生き生きとする。とても大切な仕事だ。ある意味で職人的な所があり、う~ん、と唸るような素敵な見出しを付けてくれる記者がいた。ぼくはわずか6年で記者生活を終えたから整理の経験がない。今も残念に思っている。
ある深夜、自宅に戻ってメール・ボックスに入っていた1枚のはがき。Hの奥さんからで訃報を知った。ガンの治療に大阪へ行った帰りで、はがきを手に呆然とした。

「あいつ、ガンだったのか」

体調が良くなった桜の散った4月、千葉のH君宅へ出かけた。あいつは白箱に納まっていた。その後に遺影が1枚。オレは無言で哀悼の意を示した。これがオレとあいつの終幕の場面か・・・。千葉支局時代に撮った古ぼけた写真を差し出し奥さんとHの話をした。山形出身の東北人らしい朴訥な性格だった。同じ読売で出会った同期の記者ながらHとおれではずいぶん違った人生となった。オレはあいつのようにくそ真面目に生きるのは無理だ。

息子さんが車で千葉の街を案内してくれた。”今浦島”の心境を実感しながらわずかに覚えている県庁や県警本部辺りをまぶしい気分で眺めた。1964年3月31日~12月10日、米粒のようなオレの青春記者時代が閉じ込められている。12月の異動で木更津通信部へ赴任した。23歳、独身だった。凍り付く寒さの中をカメラを肩にかけオートバイを飛ばし、火事場を取材した。キンセイカイというヤクザの子分が迎えに来て、親分の脅かしにあったりした。確か美空ひばりの公演がぼくの記事でパアになった時のことだ。

でも、こう書いているご本人が心の奥底で「(オレは)未だ死なない」と無意識に信じていることがガンである。これは高齢化社会を生きる世代の本音ではないだろうか。「日本人100歳」というのは百貨店のセールス・プロモーションの垂れ幕みたいなもので、あんまり一人一人には意味がない。やはり生き死にはそれぞれ個人の寿命であって、誰も知らない。ぼくも知らない。いや、神も知らないのではないか。

4月4日再開した制ガン剤投与の副作用は以前より、ちょっと軽くなったが、それでも味覚が失われていることは結構、シンドイよ。声のかすれもあるし、今朝はほんの少々食べたおかゆで、吐きそうになり慌てて吐き止めの薬を飲んでベッドで寝ていたらかなりすっきりした。

ベッドで竹馬の友、Nの人生を思った。鞍馬天狗のチャンバラごっこをやり、メンコで遊び、伊勢湾で泳いだ。浜でどんど焼きがあって、切り餅を焼いた。食べたら風邪ひかなくなる、んだって。Nの親父は全販連(後に全農に吸収)の中堅幹部で、部屋がいくつもある豪勢な旅館を借家に住んで、シェパードを飼っていた。同じ借家だがおれの家の倍はあったなぁ。あの犬に噛まれて以来、オレはシェパードが苦手になった。。

Nは早稲田大学を出て上場企業の海外駐在員だったが、人のいいお坊ちゃん的な所が甘かった。会社を辞め、独立し、自分の会社を設立した。騙され、会社が倒産し、借金まみれ・・・以降は裏社会のイカガワシイ連中とも付き合っていた。

2018年4月14日土曜日

死のイメージ

「ガン」だと言われ、キョトンとしたのが昨年12月9日。
「このオレがガンか」
主治医に言われるまま入院し、二つあった大きなガン細胞を肝動脈を塞ぐことで死滅させることに成功したことはすでに本ブログで書いた。しかし・・・。だからと言ってガンが死滅したのでも消えたのでもない。肝動脈を塞いだ(兵糧攻め)ことで、ガン細胞の活動を抑えることはできた。だが、またガンが再発する可能性が高く、その度に兵糧攻めの手術を繰り返しているとその手術の効き目が無くなって来るのだそうだ。

それだけでなくぼくの体内のガン細胞は他にいくつも見つかっており、このガン細胞の全活動を抑え込むことが必要で、そのためには制ガン剤投与が必至となる。3月29日、副作用が厳しいため一時、休止した投与を4月4日から再開した。制ガン剤は今までの3/5と量を減らしてもらった。お陰で副作用は少し軽くなった。

と言っても再開後、胸のムカムカ感が収まらず、昨13日朝、二度にわたって吐いた。今も食欲がない。喉のカスレも出てきている。
生涯、このガンと共生する、ということは表現は簡単だが、現実は結構、厳しい。

幸い腫瘍マーカーの数字はグンと落ちている。いい傾向だ。制ガン剤が「効いている」証左と言える。
「ガンに罹る」ということは未だ「死のイメージ」が強く、多くの知人友人が驚き、強く反応したのは全く正しい。ぼくが知らなかっただけだ。ガンは今も「死に繋がる恐ろしい病気」なのである。

そこが分かるまで2か月を要した。「トロイなあ、オレは」自分の無知に呆れ、制ガン剤を睨みつけながら朝晩、ぐっと呑み込んでいる。部屋の小さなごみ箱は薬を包んだ残紙で溢れたので大きな燃えるゴミ袋に移した。

2018年4月9日月曜日

寛解と完治②

言うまでもなく医学は素人にとって難しい。臨床医や医学研究者は厳格に言葉を使う。前回書いた「寛解(かんかい)」と「完治」について9日、ガン切除の経験がある友人の臨床医から解説的なメールをもらったのでそのまま転載する。
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 医学用語はかなり難解なところがありますが、「寛解」という言葉は20年位前は、がん領域では、原則として血液のがんである白血病に使用していたように思います
 
私が専門とした消化器癌では、手術その他で局所的に癌が消失した場合は「一応治癒」しかし転移があるかどうかは不明ですから、5年間経過を見て、転移がなければ、「治癒」(完治)としたものでした。(つまり癌治療では5年生存率が重要視されました)

しかし、消化器癌でない乳癌であれば10年は経過を見た方がよいとの意見が主流で癌によって治癒判定をするための条件が少し違ったように思いました。
 
消化器癌はX線検査や内視鏡検査などにより局所の病変を正確に判断することができ、また多くが手術で肉眼的にも確認できましたので、「寛解」という言葉はほとんど必要なかったように思います。もし局所に癌細胞が少し残った場合で、その人が長期生存した時には、「担癌長期生存例」と表現しました。

 肝癌の場合にはどうかというと、すこしややこしい問題が生じます。腫瘍マーカーが正常になり、画像診断で癌陰影が消失したとしても、それが局所の「治癒」につながるかどうかが判定出来ないためです。Stage 3であれば癌細胞は残るだろうとの想定の下に、長生きしても「寛解」という言葉を使わず、「担癌長期生存例」の範疇に入れるのではないかと思います。(「寛解」という言葉を使用してもよいのではないかと内心は考えていますが・・・)

 貴兄の肝癌については私はほとんどわかりません。なぜなら、私の肝癌についての知識はB型またはC型肝炎からかなりの期間を経て(多くは肝硬変を経て)悪性化したものについてであり、貴兄のものがアルコール性のものであれば、血清肝炎由来のものよりも治療成績がよいと思うからです。

 肝癌ですから、治療方法は同じようなことを行いますが、貴兄の場合には「ガンと共に生きる」という可能性が大きいと推測しています。ただアルコールは絶対に止めることが条件になりますが・・・。

 化学療法は苦しいものです。でも貴兄の場合には希望をもって頑張ってくださることをこころより願っています。 「ガンと共に生きる」・・・これは心理的には大変なことですが、それを受け入れて活躍してくれることを祈っています。

寛解と完治①

在米の徳留絹枝さんからの突然のメールで、いろいろ知ることができ、近々、お会いできることになりました。わざわざ茅ヶ崎まで見舞いに来てくださるそうだ。
意外や意外。これがブログの面白さか。それとも「ガンの脅威」なのか。
ぼくはジャーナリズムの世界で長年生きてきたのですが、驚くべき事実が時として”向こうから”目前に現れます。それほどガンは知名度抜群、しかも「死のイメージ」が強烈で、その割に多くが生きている、という妙な病気。ガンを患って10年過ぎて悠々と生きている人がたくさんいます。でも「治った」と思っていいる人は少ない。

以前書いたが、医学界では「寛解(かんかい)」という言葉があるそうです。「完治」
ではなく「寛解」。一見、治ったように見えるがいつ再発するか分からない、ことを指す。完全に病気を克服した場合は「完治」という。ここで間違ってはいけないのだが、
「寛解」と「完治」は根本的に違う状態、ということです。

もちろんぼくの場合、まだまだ「寛解」にはほど遠い。たぶん生涯、ガンを抱えて生きてゆくことになろう。だから「ガンと生きる」のである。それがようやく理解できてきた。
4月4日の診察ではマーカーは順調に下がってきている。グラフを見せてくれたが、マーカーは極端に右下がりを描いている。体内のガンが小さくなってきていることを示す指標だ。来週、CTスキャンで確認するともっとわかるそうだ。楽しみが増えた。

制ガン剤投与再開で副作用を心配しているが、今のところ軽微で、大きな問題はない。
その日は天王寺の都ホテルに泊まった。早朝、名古屋へ出て浜松でガン・サバイバーと会い、ガンを巡って人間の生き方を話し合った。

昼はお茶で有名な島田で会食。その後、東海道を南下、三島まで行った。その間、お腹がゴロゴロして、ちょっと心配。この列車はトイレがない。吐き気も少しした。こうなると本を読む余裕もなく優先席の隅に持たれてじっと各駅を数えながら三島へ向かった。
富士市は富士川⇒富士⇒吉原⇒東田子の浦と停まってようやく沼津圏内に達する。吉原では昨年、オカリナの先生に習ったことを想い出し懐かしかった。三島駅についてトイレに飛び込んだ。

2018年4月6日金曜日

制ガン剤再投与

4月4日主治医の診察で、ガン・マーカーが急激に落ちているとグラフを示され説明を受けた。マーカーが落ちているという事は体内のガン細胞が縮小していることを指す。来週、CTスキャンを受ければよりはっきりするそうだ。

この間、副作用に苦しんできたが、ガン細胞も制御されつつあるのだ。ぼくはこれまで「抗ガン剤」と書いてきたが、臨床医たちは「制ガン剤」という言葉を使う。意味はまったく同じなのだが、「抗」は抗う、というイメージが強く、「制」は制御というニュアンスを感じる。「ガンと生きる」ぼくとしては「制ガン剤」と言った方がいいように思うようになった。これからは制ガン剤と書こう。まさに「ガン・コントロール」である。

マーカーは落ちているが、医師は制ガン剤の投与を再開する、と告げた。ただこれまでより量を減らし従来の3/5にするという。制ガン剤は続けることが大事、再開はやむを得ない。ガンと平和共存するため避けられない措置だ。副作用に苦しむことを覚悟で、制ガン剤投与再開を受け入れざるを得ない。

診察が終わって早めに病院を出られた。ホテルは四日市の都ホテル。近鉄経営の高級ホテルだ。LA駐在員で帰国後、役員に出世した友人に頼んで取ってもらった。診察日が高校の同窓会とぶつかって、出るつもりでいた会合に出られなくなった。せめてホテルだけでも四日市にしようと思ったからである。

新大阪から新幹線は東へ突っ走る。米原から岐阜へ至る車窓に満開の桜並木が遠望できた。しばし鑑賞してスマホをチェックした。と、珍しい人からメールが入っていた。20年も前にLAでホロコーストを生き抜いたユダヤ人をインタビューして書いた『忘れない勇気』(潮出版社刊)の著者。ビジネス駐在員夫人で、シカゴの大学院で修士号を取得した。徳留絹枝という。ご存知かな。真面目にアメリカでアメリカを勉強した勤勉な女性である。美しい人ということも添え書きしておこう。

その彼女からの見舞いのメールだった。彼女の許可を求めたうえ全文、転載する。
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今日、インターネットで今の日本の政治状況を伝えるサイトを幾つかサーフしていて、北岡さんのことに触れたページを見つけ、お病気のことを知りました。

昨年末癌が見つかったそうで、いろいろ心に思うことがおありだろうと想像しております。

私の夫も2009年に肺がんが見つかり、故郷の鹿児島で治療をするために31年住んだアメリカから二人で帰国しました。5年間、心優しい家族や良き友人に囲まれ、治療もありましたが概ね平穏な暮らしができました。その間生まれた2人の孫の顔を見るためにアメリカに旅行することもできました。本当に病状が悪化したのは最後の2か月で、2014年4月に亡くなりました。その後は、故郷の仙台で95歳の父と暮らしましたが、その間私自身も乳がんの手術をしました。そして娘夫婦の熱心な勧めもあり、グリーンカードを再申請して昨年夏にアーバインに再移住したところです。娘夫婦と6歳と4歳の孫と暮らしています。日本を出る前に、18年間取り組んだ日本軍捕虜米兵に関する著書も出版することができました。

何やら自分のことばかりになってしまいましたが、夫と私自身の癌と共に生きたこの9年を振り返り、北岡さんにお送りしたい言葉は北岡さんがこれまで生きてこられたように、癌とも共に生きて下さい」 ということです。というか、そうしか生きられないと思います。

ご家族や友人の愛に包まれ、良き日々を過ごされますよう、心からお祈りしております。

徳留絹枝

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彼女が住むアーバインという街はロサンゼルスのダウンタウンからゴールデン・ステイツ・ハイウエイ(国道5号線)を車で1時間ほど南下、元はオレンジ園やイチゴ畑ばかりの農業地帯だった。そこが開発されて今や南カリフォルニアでもっとも美しい最先端技術地域となっている。UCI(カリフォルニア大学アーバイン校)が広大な敷地にあり、キャンパスには白人より黒人より、アジア人が一番多いという新興大学である。何度もGolfに遊んだ。日本の企業、駐在員も多い最も発展し続けている都市である。近くにマツダ自動車の米国現地法人の本社がある。

1997年11月10日、『忘れない勇気』の初版が出て、さらに再販された。表紙裏に彼女の署名がある。翌1998年1月22日、その本をいただいた事が本棚に並べていた書を手に取って確認できた。20年前、ぼくの事務所兼スタジオを訪れてくれた。

地味ながらいい仕事だと思う。駐在員夫人の”手並みぐさみ”的な見方をしていた自分を大いに恥じた。その後、米兵捕虜を日本へ招くなどでぼくは彼女の言動と心優しさを仄聞していたが、まさか、今になってブログを読んでメールをくださるとは予想外。ガンのお陰、というのも変だが、事実、最近こうした展開が多い。
彼女は4月、夫の墓参りに帰国するというので帰米前に会えれば嬉しい。

翌早朝、特急で名古屋へ向かう。なぜか故郷の風景が以前と違って見えた。名古屋駅構内できしめんを食べた。美味しいな、と意識的に思わせながら実際には味覚は未だ戻っていないことを確認した。
ガンは怖いし面白い。



2018年4月3日火曜日

生きている昔

携帯電話に残された名前。朝、返信の電話をかけた。
彼は元々、日本社会党中央本部の国民生活部長だったが、党勢が傾き、書記長だった江田三郎に言われて本部書記を辞めた。公害研究会を立ち上げ、全国を歩いた、いわゆる市民派運動家の親分のような男。政局となると夢中で院内外を動き回るクセが抜けない。
「いや、昨夜、久しぶりに文さんとメシ食っててね。文さんが「北さんのことが書かれている」とある本を示して見せたんだ。なんとか言ったなあ、元新聞記者。いろんな本書いている人。その人の本に北さんの事が書かれていた。それで話題となってね。電話したんだけど繋がらなかった」
文さんとは禁煙運動に人生を賭けた市民運動家。運動を始める前はヘビースモーカーだった。

元新聞記者の書き手はいっぱいいる。本多勝一、内藤国男、斎藤茂男・・・。いろいろ思いを巡らせて、ハタっと気付いた。ポンちゃんと呼ばれた社会部記者。美空ひばりを書いた『戦後 美空ひばりとその時代』が抜群にいい。吉展ちゃん事件を掘り下げた『誘拐』、静岡県の山奥、寸又峡に逃げ込み、人質をとってたて籠った金嬉老事件の『私戦』などノンフィクション作家としていいドキュメントを書き残した。

読売では先輩にあたるが、面倒見のいい人で、ぼくがフリー・ジャーナリストになった時、雑誌の編集長などを紹介してくれた。
「本田靖春」とぼくは言った。
「本田靖春じゃあないか。本田さん。ぼくの読売の先輩記者だ」

彼が以前、『ロサンゼルスの日本人』というノンフィクションを上梓したことがある。1か月ほどロサンゼルスに滞在して書いた人物紹介ルポだった。多くがぼくの紹介だったので当然のようにぼくの名が出てくる。

LAダウンタウンにメインというなんとなく怪しげな雰囲気の地区があり、夜ともなると人通りが途絶える、ちょっと危ない感じで、ビジネス駐在員らは避ける。このメイン通りでカウンター・バーを開いていたミッチャンという日本人女性の店に案内すると本田はすごく気に入り毎夜顔を出して一緒に飲んだ。

それで文さんとぼくを話題にした訳だ。なぜか最近、「昔」の話が多くなっているなあ。これも高齢化現象の影響か。でもその「昔」が今も生きていることが素晴らしい。

その日、4月1日深夜、自宅に戻るとブログに対するコメントがラスベガスから届いていた。元大分新聞記者だった男で、人はいいが、記者としてはイマイチという感じ。Golfはめちゃ上手かった。今はカリフォルニアとネバダの州境で、カジノの現役のディーラーをやっているという妙な奴。見舞いメールの一種だ。全文掲載する。
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北岡さん  術後の経過はいかがですか?
自宅療養中なのでしょか?

10年前に知人から頂いた本の中に北岡さんの力作「13人目の目撃者」を見つけ
久し振りにのめり込んで拝読しました

事件を取材中に本にしょうと思って克明に時間を書き留めていたのか それとも記者の習性で
取材前に日時を記録していたのか また本を書くにあたって後から記憶をたどって時間を割り出したのか、とにかく事件記者の凄さに感嘆しました
それと行間に貴兄の正直な性格がモロに出ていたのもこの本に引き込まれた要因と思います

本の発行から2年後に小生はLAでメデイアの仕事をすることになり、あの当時この本に出会っていたら「三浦事件から〇〇年ロスの日系社会の今」みたいな番組を企画し貴兄に出演のお願いをしたかもしれません

白内障で本を読むのが難しいなか夢中で没頭できたのは久し振りでした
ありがとうございました

安倍隆典の「三浦和義との闘い」ジミー佐古田の「疑惑の仮面上下」もあったので
日本で読もうと思ってます


今週4,5,日  ラスベガスでおよそ20年ぶりIさんに会います
ロス時代の話に花が咲きそうです


2018年4月2日月曜日

五味川純平と囲碁

ガンが発見されてぼく自身驚いたけどその後の経過は本ブログに綴ってきた。ほとんど毎日起き、寝た日誌風事実、ぼくが考えた、感じたこと。友人との見舞い、再会が今も続く。

2006年8月、米国から帰国して、日大国際関係学部の教員にポストを貰った。その仲間もぼくのガンはほとんど知らなかった。気づいて仲の良かった同僚の教授3,4人に簡単なメールを送った。すでにガンで急逝した教授もいたが、最近、ガンで休講している国際文化学科の女性教授もいる。

インドネシア文化を生涯のテーマにしている文化人類学者、Y教授。教員としてキャンパス人となった初期のころ、戸惑うぼくにいろいろ導いてくださった。彼は立教大学を卒業してから米国中西部の大学へ留学した。現地で結婚、子供も生まれたが、不幸なことに夫人がガンで亡くなった。以来独身。帰国して日大で教えてきた。
2015年8月27日、彼がインドネシア行きに誘ってくれた。バリ島の空港に出迎えに来てくださった彼はバンドン大学で客員講演、ユドヨノ元大統領のスピーチを聴く機会を与えられ、最前線の来賓席で聴いた。なかなか面白かった。学生がユドヨノ元大統領を熱狂的に歓迎していた光景に日本との差を思った。
バンドンからジャカルタまで鉄道で移動した。ぼくの親父がジャワを占領していた大戦中、駅長をしていたバンドン駅はそのまま今も使っていた。インドネシアがアメリカとまったく同じ「多様性の統一」を国是としていることを知った。

その彼がブログを読んだと突如、メール。
彼は隣町・藤沢市の辻堂が実家。電話したらぜひ夕食、ご一緒しようと茅ヶ崎駅まで来てくれた。オヤジの料理が美味い田舎風居酒屋へ案内した。ぼくはノンアルコールで付き合った。会食はまずまず支障なかったけど、料理を満喫するほどまだ回復はしてない。駅前で別れたが、旧交を温め再会の喜びを噛み締めた。

寝る前、映画『戦争と人間』を観た。全編3巻9時間23分の長大歴史映画だが、日本の映画俳優人総動員、文字通りオールスター・キャスト。浅丘るり子や吉永小百合、松原智恵子、栗原小巻らの若く美しい映像を楽しんだ。外交官を演じた石原裕次郎がいい。
原作者の作家・五味川純平を想い出した。原宿駅のすぐ側にお宅があり、お邪魔し五味川とよく碁を打った。彼は喉頭ガンで声を失ってから人を寄せ付けなくなった。軍事問題をテーマとする勉強会を一緒にやっていた。なぜかぼくをとても可愛がってくださった。ヘボ碁だったが、朝4時ころまで対局に夢中だったこともあった。高価なウイスキーを出してくれた夫人もぼくのLA在住中亡くなった。五味川純平については改めて書きたい。

2018年4月1日日曜日

間にあったお花見

九段の桜を上京してきた後藤正治と観て歩いた。早くも満開が終わって、散ったソメイヨシノの花びらが北の丸公園の水辺を埋めていた。すぐ側が靖国神社だ。

3月末となれば(ぼくのガンも)収まるだろうと予測して、31日、<カホゴの会>を予定していた。鎌田慧・保阪正康・後藤正治を囲んで飲む気楽な会。学士会館の中華料理を予約。現役の新聞記者含め13人が集まった。それぞれ知られたノンフィクション作家や研究者だが、若い記者や編集者は名刺交換。ぼくらは「お久しぶり」といった感じ。飛び入りの政治学者がいたが、彼も会いたかったノンフィクション作家たちに会えて喜んでいた。

みなさん、(ガンを)心配してくださっていたので、ぼくが今回の罹患、抗ガン治療の経過を報告。抗ガン剤とはガン細胞を標的にしているのだが、同時に自分の健康な細胞まで攻撃する。だから現実に抗ガン剤を投薬し続けると副作用が出てくる。ぼくの場合、それが厳しく出て、今回は1回休みをもらったので元気を取り戻した、と語った。

話題はいろいろあったけど雰囲気は和気藹々として、議論し自分が持っている問題点を話し合った。牧久が書いた『昭和解体』が話題となった。国鉄分割・民営化の過程を労使・政官の側面から詳しく書きあげた。牧は元日経社会部記者。常盤クラブ(元国鉄記者クラブ)担当として、国労と国鉄当局の対立抗争をナマ取材した。
また、保阪が西部邁の自死(2018年1月21日)を話題にしたことに驚いた。札幌で子供の頃からの友だちだったそうだ。西部は1960年安保闘争ではブント(共産主義者同盟)の活動家で、後に保守思想に変った。
後藤正治と牧久とタクシーで東京駅へ出て東海道線下りに乗って茅ヶ崎まで帰った。ニュース・ソクラの土屋直也が送ってくれた。実に面倒見がいい記者だ。ぼくと土屋の関係も不思議な縁だった。

2018年3月31日土曜日

抗ガン剤一時休止③

それにしてもガン対策とは複雑怪奇で理解不能な部分と抗ガン剤との”匙の加減”という分かり易い部分がある。ということがこの数日で分かってきた。3月29日に抗ガン剤投与を止めたとたん、ぼくの体は健康へ向けて動き出す。30日になって昼食が食べられるようになった。

となると人間は正直な動物で、誰かを誘いたくなる。「あいつ、誘うおうかな」と思った。地元茅ヶ崎市を担当している女性の地方紙記者だ。ぼくの娘よりもずっと若く、記者には珍しい目の大きな美人だ。多分、30代半ばだろうな。いい記事を書いている。

ただ、ぼくの体の回復が本物かどうか、自信がない。誘うか誘うの止めようか、迷っている時、電話が鳴った。電話の向こうの声に思わず「えっ!」なんとウソのようなホントの話。誘おうと考えていた当の本人からの電話だった。そんなことたまにあるよね。

彼女は「時代の正体」という神奈川新聞の連載シリーズ班の担当記者。昨年、保阪正康が藤沢に講演に来た時、その内容を片面全面使って3回、詳細に報告したのである。テーマは「天皇と日本国憲法」だった。まさに全国紙ではめったにできない芸当だ。これが地方紙の良さ、というものだろう。

ぼくは彼女を誘って「すし善」へ行った。生前、開高健がよく行った馴染の店である。そこで「ぼく、ガンになっちゃって酒飲めないんだ」と小さな店で大きな声を出した。店主も女将さんもカウンターで寿司注文したばかりの客の夫婦も一斉にぼくを見返った。びっくり。店全体が凍り付いたよう。

「だからさ、ぼく、酒は飲めないの。でもさあ。今朝はかなり、回復して今夜は(寿司を)なんとか食べられそう」

驚いた人々(と言っても記者入れて6人のちっちゃ店)。抗ガン剤止めて3日目でしっかり健康を取り戻した。開高健記念館に神奈川新聞の(彼女が撮った)写真が司馬遼太郎の手紙と並べて展示していたよ」と店主。
「君は”司馬療並み”か。凄げえじゃないか」と冷やかした。

ぼくは開高健という作家を語った。昨夏、サイゴンの彼の定宿だったマジェスティック・ホテルのバーでワイン飲んだ話。南米アマゾンでの釣り紀行の面白さ。
城山三郎と下手なGolfをシアトルでやったことを話した。城山三郎は直木賞を獲った『総会屋錦城』がやはり面白いが、学生時代、大学祭で城山に講演してもらおうとこの茅ヶ崎市のご自宅を訪れたことがある。まだアパート住まいではなかったか。55年も前のこと。

渡辺淳一からLAに突然、電話がかかってきたことがある。「講演でシアトルに行くが北さん、Golf付き合わないか」という。城山三郎も一緒だった。大作家のお誘いというのでクラブバッグ担いで、トコトコ、シアトルまで行った。城山と組んで一緒に18ホール回った。ぼくのドラーバー・ショットが極端にシャンクしてGolf場沿いの家のガラスを割ってしまった。後日、請求書がLAに届いた。懐かしくも楽しい思い出だ。

城山三郎が終の棲家として茅ヶ崎市に住んでいたこともぼくが茅ヶ崎市を選んだ理由の一つ。丁寧に昭和史を取材した作家で、セミドキュメント風作品が多い。なかでも何度も読み直した小説に『落日燃ゆ』がある。文民首相・広田弘毅を評伝風に書いた作品である。
第28回毎日出版文化賞、第9回吉川英治文学賞を受賞した。

広田が唯一、文官として有罪に問われ絞首台に上ったのなら広田以上に戦争に加担し指導した人間がどっといる。もともと広田は外交官で、パリの平和会議に出ている。幣原喜重郎の後輩で協調派の外交官だった。彼らを軍閥が「軟弱外交」と激しく攻撃した。

権力との距離を考えた場合、処刑の対象となった官僚、政治家。例えば商工官僚・岸信介。東條内閣の商工大臣(後に軍需次官)として対英米戦の物資供給を一手に引き受けていた。現総理・安倍晋三の祖父である。岸が恩赦で釈放された経過は分からない。

城山の短編小説に『硫黄島に死す』という小品がある。1932年第一回のLAオリンピックで馬術大障害で金メダルを獲得した西竹一中佐(男爵)の生と死を描いたものだ。何度も読んだ。開高健が『ベトナム戦記』を書き、戦争の実相をぶちまけた作品も凄いが、城山の戦争に生き死んだ軍人の話も深い余韻を感応する。

久しぶりに美味しい寿司を食べ、二人の作家に話題が弾んだ。くだんの女性記者はぼくらと違う発想で取材し原稿を書いている。そこがなんとも面白い。彼女のことは改めて書きたい。
今日はソメイヨシノが満開、北の丸公園で後藤正治と花見することになっている。

2018年3月30日金曜日

抗ガン剤投与一時休止②

抗ガン剤投与、一時休止という主治医の指示で、副作用に苦しんでいたぼくもようやく「少しは楽になれるかな」という期待感が湧いてきた。夕刻、新幹線で一気に名古屋から小田原にノンストップで突っ走る列車が1本だけある。18時16分新大阪発「ひかり532」号。小田原着が20時36分。東海道在来線に乗り換えて茅ヶ崎に着きタクシーで帰ると21時をとっくに過ぎていた。

疲れたなあ。考えれば当たり前か。早朝、病院に着き、終日、院内で検査や採血、採尿、診断、点滴が続き、心電図をとってコーディネーターとの打合せが終わると16時を過ぎていた。

診察の時、主治医はぼくの訴えに「そうですか。ちょっと副作用が厳しいなあ。少し休みますか…」とこれまでの抗ガン剤投与をストップすることを決めてくれた。その際、主治医は「QOL(Quality Of Life)も大事だからね」と言った。現代の医学では単に「救命」だけではなく患者の生活の質を悪化させない配慮も治療のうちだと考えるようになった。以前では考えられない進化と言えるだろう。

翌29日朝、喉のかすれがずいぶん楽になった。食欲はあまりないが、無理にサンドイッチを牛乳で流し込む。それでも全部は食べられない。抗ガン剤を飲まなくていいから少し気分に余裕がでてきた。唇の荒れは未だ続いている。

アメリカで知り合った同年の友人と新宿で会う。彼は3年前、膀胱ガンの手術を受け、退院したが、その後、肺に転位して抗ガン剤を飲んだ。副作用の激しさはぼくよりもっと厳しかったようだ。食欲がない、という状態がどんなふうか、熟知している。
「分かるよ、北さん。でもしょうがないよ」

お互い「ガン・サバイバー」だ。抗ガン剤の副作用に耐えることがガン患者に与えられた宿命である。やはり当初、「ガンと生きる」とこのブログのテーマを決めたことは間違っていなかった。ぼくはいま、体内にガンを抱きながら生きている。

抗ガン剤投与を止めて3日目。3月30日、ようやく効果が出てきた。朝から気分がいい。喉のカスレもかなり良くなった。茅ヶ崎の病院で医師の解説を受け、「ガン患者」という存在の実態が分かってきた。

昼食を食べた。500円の北海道丼。数の子、鮭、カニ、イクラなどを酢飯に乗せた海鮮丼。「美味しい」とまでは言わないが、食べられるだけでもマシ。明日が楽しみだ。
どうやら桜の満開に間にあった。北の丸公園の桜が今年も観ることが出来そう。

2018年3月29日木曜日

抗ガン剤投与、一時休止①

主治医の診察を受けた。
抗ガン剤の副作用が厳しくて今日から抗ガン剤を少し休むことになった。ホッとしている。これで少しは抗ガン剤の副作用が収まるのか。
大いに期待しているが、今のところあまり変化はない。
相変わらず食欲はない。
抗ガン剤の効果は大きく、数字が示している。

2018年3月26日月曜日

毛ガニ食べたかった

26日、退院した。病院のシャトルバスで通り過ぎた中央公園の桜が満開。でも例年のウキウキ感がない。
それより砂川からメールで桜の便り、そちらの方が嬉しい。本人の了解を得て全文掲載する。
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茅ケ崎の病院に入院されたのですね。
ちょっと驚きましたけど、食欲がなくお一人で暮らされている北岡さんに取りましては、病院にいることの方が、今は安心ですね。

食欲が多少なくても、病院なら栄養補給の対応ができますから。是非、水分補強だけでなく、たんぱく質を含む点滴で、栄養補給をしていただいて、
体力保持して下さい。

気温が低い天候が続いていましたのに、桜だけは思いがけず早く咲き始めた様です。

北岡さんの体力回復より、ちょっと桜が早すぎた様ですので、今年の桜は、満開になった、家の桜の写真でお楽しみください。

私の家の桜は、ソメイヨシノではなく、江戸彼岸桜という野生種です。ソメイヨシノより花弁は小ぶりであでやかさはありませんが、日本画のような淡い美しさがあります。
この桜は、武蔵野の雑木林によく見られた桜です。
60年程前に、父と雑木林から掘り起こして二本庭に植えました。1本は、車庫を作るために伐採してしまい、残った一本を現在地に移植しました。
その木も、雪や台風で幹が折れてしまいました。

その幹も今なお花を咲かせ、その木からこぼれた種で成長した新たな3本も今では見事な花を咲かせるようになりました。
 この江戸彼岸桜は何より長寿であることです。ソメイヨシノは、今各地で寿命が来ていますが、江戸彼岸桜は、
最長のものは樹齢2000年を超え、日本の三大桜といわれる山高神代桜淡墨桜三春滝桜は、国の天然記念物になっています。

砂川の大地で、風雪に耐え咲き誇る江戸彼岸桜から、パワーを受け取ってください。

砂川の大地では、四季折々の自然が見られます。桜はやがて葉桜に、そして新緑の美しい季節を‥‥
また麦の穂も天をついて実り始め、沼田鈴子さんに生きる希望を与えた被爆アオギリ二世は、砂川の大地で、3年目を迎えさらに成長を見せてくれることと思います。

ということで、お花見は写真でしていただき、新緑の頃に砂川に足をお運びくださいませ。

いつの季節でも、砂川の大地は北岡さんを歓迎しております。それまでしばらくは、病院での栄養補給をして下さい。

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福島京子
砂川平和ひろば
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(注)砂川闘争は日米安保は違憲という伊達判決で有名。違憲判決が出たが、慌てた政府は最高裁に特別抗告。ダグラス・マッカーサーJR駐日大使(GHQのマッカーサー総司令官と同名の甥)
に藤山外務大臣が呼ばれたことが分かっている。砂川闘争はその後の反米軍基地闘争のシンボルとなっている。


家内と電話、LAで親しくしていただいた公認会計士から見舞いの電話。
今度は札幌から毛ガニを送るという電話。例年、季節になるとでっかい毛ガニを送ってくれる友人。
「毛ガニ食べた~い!」ぼくの状況を詳しく話して、送るのは止めて欲しい、と要請。
悔しいけど味が無いのだから仕方が無い。
近鉄都ホテルの役員だった人から電話、明日の大阪のホテルの部屋の予約が出来ていなかったのでお願いした。

寝る前、日活映画「狂った果実」を観た。白黒映画で、石原裕次郎も津川雅彦も北原三枝も若いのは当然だが、今観るとまるでおとぎ話のような青春映画。舞台はここ、湘南。
あのころ自動車やヨット、スピードボートなど持っていたのはごく一部のお金持ちだけ。多くの観客は「あこがれ」で観ていたのではないか。
女性新聞記者が書いた『地図から消される街』(講談社現代新書)が届いていた。「311後の『言ってはいけない真実』」というサブタイトルがついている。
頑張っているなあ、と感心した。311で街が消える。いったい誰の所為か。
2 個の添付ファイル

2018年3月24日土曜日

再入院

翌朝、茅ヶ崎市の病院へ行った。院長に会う。
「入院しないか。北さん、その方が安心だよ」
彼はぼくが独り生活をしているのを知っている。確かに病院ならなにが起きても完全看護、これほど安心な場所はない。その場で大阪へ行くまで再入院を決めた。
一度、マンションに帰って入院に必要な下着などをまとめ、治験薬ともにカバンに突っ込み、タクシーを呼んだ。

再入院となるとなんとなく気構えが違ってくる。最初は「(病院なんて)高級刑務所、どこからどこまでも監視されている」というマイナスイメージの受け止め方をしていた。今度は逆に考えた。病院は「完全看護」、枕の上のボタン一つ押せば看護師が飛んできてくれる。薬飲むから水が欲しい、と言えばすぐ運んでくる。

ぼくはただ寝ていればいい。考えればこんな安心な場所はない。人間とは勝手な動物だ。再入院ですっかり安心した。廊下を点滴の支柱を引き摺って歩いている患者をみると「ああは、なりたくないな」と見ていたのが今や自分がその点滴を受けることで安心している。実際には点滴は血中の水分を補給するだけでガンとは無縁、あまり意味がない。でも点滴受けているとぼくは立派な患者。このように防御的になるのも抗がん剤の副作用が昂じているからだろう。

病室で主治医と話していたところへ電話が入った。LAで世話になった自動車部品メーカーの社長の奥さんからだった。2,3度電話しても誰も出ないので心配になってはがきを出した返事だった。親しかったその社長は後に本社の副社長となったが、人柄のいい経営者だった。息子はLAでレストランを経営、成功している。

それがアルツハイマーで施設へ入ったそうだ。どこも悪くなかったのに。ぼくは急に「高齢者世代」を痛く感じることとなった。アルツハイマーはガンではないけど厄介な病気である。彼こそ日本の自動車をアメリカ市場へ参入する際のビジネス尖兵だった。今や世界的な部品メーカーとして自動車工業界を席巻している。しかし病気には勝てない。

1980年代、ロングビーチの工場を菜っ葉服を着て歩き、気軽にアメリカ人工員に声を掛けていた。
「Good Morning Jack」「Ha~i 、how are you Ben?」
彼自身もヘンリーという米人名で呼ばせていた。日本人駐在員に米国名をつけることを義務づけていた。アメリカ人に日本名は覚えにくい。ボブやジミーやマークの方が呼び易いし覚えやすい。「郷に入れば郷に従え」を実践している日本人経営者にぼくは敬意を払った。

しばらくしてまた電話。
「どう?」
家内だった。吐いたこと、副作用が思いのほかきつく再入院したことを告げた。
「なにか必要なことあったらいつでも電話ちょうだい」
社交辞令とは思えない情感を感じた。

2018年3月21日水曜日

沢田知可子

朝の薬を飲んだら30分後、吐いた。3度。抗ガン剤の副作用がだんだん激しくなる。胃の中が空っぽになったけど食欲がない。大阪の病院へ電話したけど「今日はお休みです」と硬質の警備員の声。そうか、今日は春分の日なんだ。茅ヶ崎市の主治医に電話したら明日病院へきなさい、という。点滴をするそうだ。それまでじっと待つより他ない。
こんな時は静養すべしとベッドにもぐりこんで寝ていた。

午後1時過ぎ、沢田知可子から見舞いの電話。
「北岡さん、お元気?(ガンは)大丈夫?」
副作用のことを正直に話すと顔が曇った(電話の向こうだったから勝手に想像しただけだけど)。

沢田知可子との付き合いも長くなったなあ。20年ほど前、LAダウンタウンの北、バンカーヒルにあったコンドミニアムの事務所にふらっとやって来た。ぼくは日本のテレビを一部しか見ていないので沢田を知らなかった。同行の若い男が「紅白にでたんだぜ、千可チャン」と胸を張った。
「逢いたい」という曲が大ヒットしてミリオンセラーとなったそうだ。その年、NHKの紅白歌合戦に出場した。ぼくだってNHKくらい出たことあるし、BSの1時間番組を数本制作したこともある。ハリウッドの俳優、マコ・イワマツをキャスティングして「日系アメリカ人の半世紀」や「アマゾンに生きる日本人」などを制作した。

そのころぼくは紅白にとっくの昔に興味を失っていた。もちろん歌手の世界ではメジャーなのだろう。
親しくなったところで「千可チャン、LAでライヴのコンサートしないか」と誘ってみた。
「やりたいわ。できるの?」
彼女の熱い眼差しに促されて、全米日系人博物館新館のこけら落としにちょうどいいな、とアイリーン・ヒラノ館長(後にダニエル・イノウエ上院議員夫人)に話し、実現した。
<沢田知可子”愛”を歌うフレンドシップ・コンサート>と銘打ってライヴのコンサートをプロデュースした。1999年2月13日のことだ。その時の総領事が谷内正太郎(現国家安全保障局長)だった。

沢田知可子は芸能人にありがちな真っ青なアイシャドウ、長いツケマツゲ、真っ赤な口紅といったイメージからほど遠い。実に清楚で端麗な歌手である。声に透明感があり、歌が抜群に上手い。今も全国からお呼びがかかり、コンサートに余念がない。
ダンナがピアニストでナイスガイ、仲良し夫婦だ。
LA公演は1日2回やったけど会場は超満員、大成功だった。日本人のお爺ちゃん、お婆ちゃんが感動して目を潤ませていた。アイリーンも喜んでくれた。

「心配で、心配で、電話かけるの、ちょっとこわかtったの」
「大丈夫だよ。大丈夫。今日はちょっと(副作用で)しんどいけどな」
東京は雪で白くなっているという。それまで窓の外を眺めていなかったので、千可チャンの指摘で春の降雪を知った。
「こういう(ぼくの)状態なのでことしの花見は無理だなあ」
ぼくはちょっと寂し気に言った。

2018年3月20日火曜日

医師の友だち

今回の事態とは無関係にぼくには長年、ガンを手術してきた優秀な医者が友だちにいる。高校時代の同級生で京大医学部へ進んだ。学生時代、彼の下宿へもぐりこんだこともある。高校時代、彼は剣道を、ぼくは柔道部にいた。真面目な勉強家で同学年でトップクラスの成績だった。武道場で「いやあ、あっ。とうっ!」という彼の鋭い気合が今も聞こえてくるようだ。
柔道も剣道も体育の選択科目にあった。身体の小さいぼくは大きな奴を投げ飛ばしたくて柔道部に席を置いたが、果たせずいつも受け身役。ついに白帯で終わった。

彼は外科医となった。当時、外科医のすることと言えばガンを切ること。日本人には胃ガンが多く、外科的にガンを切り取るのが手っ取り早い。医学界の常識と言えた。
ところが最近、肝臓ガンなどの臓器は外科的発想より、内科的アプローチの方が効果があることが分かってきた。分子標的剤というような高度の対ガン新薬も開発されている。ぼくが受けている治験治療がそれだ。ガンから生還でき、ガンが消えた事実を「寛解」と医学用語でいう。「完治」ではなく、とりあえずガンが消えたことを指す。再発するかどうかは分からない。しかしそこまでいけば一安心だ。彼からメールが届いたので全文紹介する。ぼくの場合、長丁場を示唆している。

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北岡 兄

 電話をいただき有難うございました。「がんとの闘い」に頑張っておられる貴兄に敬意を表しています。前回、お目にかかった時にお話ししたことをいろいろ考慮していただいて感謝しています。

私は30歳前から、がん専門医として手術を中心に25年間活動してきましたが、当時は「がん」と告知することも許されない時代で後悔することばかりでした。とくに抗がん剤を使用する治療(化学療法といいます)はよい薬がないのと副作用への対応が難しく、中途半端なことをしてしまいました。

 さて貴兄の場合ですが、病名もはっきり認識しておられるし、治療法についてもよく知っておられる。そこですこし厳しいことをお伝えしたいと思い、病期が「ステージ3」(注:茅ヶ崎市の医師は当初「ステージ4」と診断したが、今では「3」で同意)であること、化学療法をかなりの間続ける必要のあることをあえて話しました。

 病気の治療というのは、主治医と患者さんとの間の共同作業と理解し、第3者が口出しをしてはならないと思うのですが、貴兄の精神力、知力は周囲の“雑音”も吸収していける逞しさをもってるからです。

 ふつう、抗がん剤の副作用は大学病院で対応するのはかなり困難で、どうしても近くの信頼できる医師に相談し、きめ細かく対処していただくことが必要だと思っています。今回、かなり細かい対応がなされているようで、うれしく思っていますが、副作用による具体的な症状については、地元の医師に訴える方が、より適切に対応してくれます。地元の主治医にも時々報告し、接触を続けてくれることを祈っています。

 今回の化学療法がいつまで続くか・・・、治療効果と副作用を見比べながらかなりの長期戦になることを覚悟してほしいと思っています。最終的には教授の判断を尊重して下さると、友人としても安心です。

 かって慶応大学の近藤誠医師は「ガンと闘うな!」と申しました。効果のはっきりしない化学療法で、副作用に苦しむ患者さんを見ていると、そうした気持ちになることは自然の成り行きですが、それは医学の否定と同じで、その行く先は明らかです。

 友人として貴兄にお願いしたいことは、地元の医師の助けも借りながら、まず半年頑張ってみることだと思います。

 私の妹は肝癌でなくなりましたが、「兵糧攻め」も4回行いました。私が主治医となった患者さんにも相当な無理をお願いしました。たいへんな忍耐を要したと推測していますが、貴兄の精神力は誰よりも強靭です。 何か不安が生じましたらメールか、わが家に電話して下さい. わたくしの経験が役立つときがあるかもしれません。


見舞いの友だち

3月17日、ボルネオから帰国した通信制・星槎大学の坪内俊憲教授が茅ヶ崎に来てくれた。この地球にたった1匹となってしまったボルネオ犀の保護活動、ボルネオ象やオラウータンを絶滅させまいと頑張っている。もともと獣医で、WHOの仕事をやり、JAICAで辺地を巡った。

ぼくが星槎大学の教授として「平和学」を担当した時、出会った。妙に人懐っこい人柄である。彼に連れられてボルネオ島へ行った。象の糞を見つけ、野生のオラウータンを3回見ることができた。ホテルの庭には体型2メートルは越える大トカゲがノソノソ出てきたり、珍しい野鳥やサルを何種も観察した。

マレーシャのサバ州はボルネオにしかいない野生動物の最後の生息地である。

広大な島の大部分のジャングルは切り拓かれ、ほとんどがパーム油(アブラヤシ)園に変わった。文明に追われた野生動物は生息地のジャングルが無くなってどんどん死んでいった。今やサバ州にしかいないそうだ。ボルネオ政府も野生動物の保護に乗り出している。

翌日18日、星槎大学の山口道宏准教授から「ぜひ、見舞いに行きたい」とまた電話。毎日新聞の出版部にいた元記者で、福祉問題の専門家。ぼくより10歳若い。何としても茅ヶ崎市まで来る、というから、たまたま東京へ行く予定があるから、と四谷のホテルで会うことになった。同じジャーナリスト仲間と見ていてくれたのだろう。口内炎は少し収まっていた。

山口と会った後、元検事と化学薬品を扱っている商社の経営者の3人で飲んだ。と、言ってもぼくは断酒中だからノンアルコールを注文。ロッキード事件や原発、立花隆や柳田邦男、それに今話題のモリカケ問題など話題は広範囲に及び実に楽しい会話となり、久しぶりの再会に話が弾んだ。

40数年前、若い検事とぼくは南平台のマンションで麻雀仲間だった。その後、彼は東京地検で辣腕を振るった。生真面目な検察官僚で検察官の地位を上り詰めた。いろん著名な事件で活躍したが、今はプライバシーを尊重して詳しく書くことは控えよう。彼から珍しいものをプレゼントされたが、詳細は内緒。

化学薬品商社の経営者は元々、経済官僚。LAの総領事館の領事時代に一緒にGolfをやった。要するに二人とも仕事とは全く無関係の遊び仲間だった。ぼくのガンを心配してくれ、時間を作って会食となったのだ。明日はLAから帰国した友だちが夕食に茅ヶ崎市に来てくれる。

今朝は鎌田慧と電話で話した。彼とも古い友だち。このブログに丁寧なコメントも何度もくれた。優しい男だ。

友だちとはいいものだ。ガンになって多くの友だちが心配して声を掛けてくれる。やはりガンとはそれほど衝撃的な病気らしい。知らなかったのはアホなぼくだけ。

2018年3月19日月曜日

副作用という伏兵②

前回書いたジャーナリスト・原寿雄さんの死を思うとき、いま、集中的にメディアと国会で議論されてる森友学園問題をどう論評するだろう。少なくとも火付け役だった『朝日新聞』の健闘には敬意を表すると思う。「朝日がんばれ」のデモが築地の本社前で行われたというから潮目が変わったことは事実と言えよう。

苦しいのは麻生太郎財務大臣、安倍晋三総理。政権末期とはこんなものだろう。安倍の大叔父・佐藤栄作(第61・62・63代首相、安倍首相の祖父、岸信介・第56・57代首相の実弟)退陣の瞬間を想い出す。マスコミが長期政権を批判して大合唱で退陣を迫った。ついに佐藤は退陣の記者会見を開いたが、「ぼくはウソを書く新聞は大嫌いだ」と苦々しく語りぎょろり目を剝いて記者たちを睨んだ。

記者席から「新聞はうそを書く」という現職総理のコメントに抗議の発言があった。佐藤は謝罪しない。「気に入らなかったら出ていけ」とまで言った。冗談じゃあない、と内閣記者会の政治部の記者全員が立ち上がり、出て行った。ポツンと独り残された佐藤はNHKのカメラに向かって退陣の理由などを語った。権力にしがみ付いていた総理の末期の姿。もちろん日本の憲政史上初の珍事だった。1972年7月7日、佐藤の在任期間は7年8か月2,798日。

さて、安倍の退陣はどんな光景になるのか。今から楽しみだ。共同通信、毎日新聞など世論調査で支持率が不支持率を下回った。安倍政権にイエローカードである。これで安倍3選は消えた、と見てもいいか。それにしても安倍昭恵総理夫人とは強か(したたか)なのか、たんなる無知蒙昧か、厚顔なのか。今も講演を続けている。

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前回に続いてガンの副作用について主治医からメールが届いた。ちょっと専門的になるが状況がよく分かるので本人の了解を得て、転載する。

抗がん剤はその効果よりは身体を痛めつけ、全身状態を悪化させるから、辞めておいた方がよい。そんな意見がどうどうと成されている。確かに、今までの化学療法は奏効率50%以下でも、治療前に効果があるかどうかは治療してみないと分からない範疇であった。

副作用も人それぞれで、その強弱も実際に投与して初めて分かる代物だ。だから、抗がん剤は不要で、がん治療は身体を弱らせ寿命を縮めているというセオリーになる。これをすべてのがんとするから始末に負えない。


がんも最初から大きく、あちこちに転移して暴れている訳ではない。小さいものから徐々に大きくなっていくということは小学生でも知っている。それでは小さながん、すなわち早期がんと大きくなって進んだがん、進行がんでどのような差があるのだろうか。癌の種類によるが早期がんで切除した場合10年生存率95%もあれば50%もあるし、30%もある。この見極めがポイントである。それではその情報は何処にあるのか。がん登録をして日本の各種がんの早期から進行がんの10年相対生存率が国立がんセンターや対がん協会から次々と発表されている。


北さんの肝臓がんはその中であまり成績の良くない部類であるのも事実だ。北さんの肝臓がんのステージだと通常、5年生存率は16%から14%と膵臓癌と似たりよったりである。しかし、このデーターは10年前に診断を受けた人たちの成績であることに注目しなければならない。


今回の免疫チェックポイント阻害剤と分子標的治療薬は今までの化学療法のコンセプトとは全く異なった作用機序で、実際、その奏効率は60%以上期待される。となると、北さん、腫瘍マーカーは確実に低下している。CT検査はまだだが、期待が寄せられる。


がんに対しては効果はある、しかし、副作用は本人の予想以上に厳しいらしい、あるいは予想だにしなかったかもしれないようだ。こればかりは経験者でないとものが言えない。副作用を和らげる薬となると、またまた薬の量と種類が多くなる。どうする、辞めてしまうのか。


辞めないよね、北さん。口内炎は経験者でないと言えない。食欲不振も経験者しか言えない。どうしてあげれば良いか、私もお手上げです。その一つ一つの症状を和らげるであろう薬を処方しても所詮、気休めです。口の中が荒れて、そして味がなくなり、食欲が全くないなどの生活の質は落ちても、死んでたまるかのジャーナリストスピリッツを鼓舞するような文章で応援するしかないかな。

平成30年3月19日

2018年3月17日土曜日

副作用という伏兵

原寿雄を知っている現役のジャーナリストは今、何人いるだろうか。もちろん小和田次郎を説明できる若い記者はほとんどいないだろう。50年も前、ぼくが駆け出し記者だったころ注目されたこの名前は人気で彼の書『デスク日記』は大きな反響を呼んだ。

当時、共同通信のデスクだった原寿雄が「小和田次郎」のペンネームで書き綴ったマスコミ裏話である。裏話こそホントの話だから面白い。新聞記者やデスクはニュースの扱いで大きく見解が違う場合がよくある。特に政治記事は政治部記者と社会部記者では対立することが多々あった。デスク日記はその「書かれなかった」編集局内部の議論、対立を赤裸々に綴った。

デスク日記は1963年12月から1968年10月まで原寿雄独りで書いた。後日、みすず書房から5冊の本として出版され話題となった。今、読んでも新鮮で、まるでジャーナリストの教科書のようなスピリットに溢れている。多くの若い記者諸君に読んでほしい。

原は2017年11月30日自宅の付近を散歩していて倒れた。近所の人の通報で侃子(よしこ)夫人が駆け付けた時、意識はあったそうだ。夫人が肩を抱くようにして原を立たせ、自宅の方へ歩き出したところ老いた二人とも転んでしまった。救急車が原を乗せて病院へ運ぶ途中、救急隊員に「奥さん、ご主人はもう息をしていませんよ」と言われた。胸部大動脈瘤破裂で午後6時5分、原は逝った。享年92歳。

原寿雄は筑紫哲也とともにぼくがもっとも敬愛するジャーナリストである。

ぼくは自宅が同じ茅ヶ崎市だったこともあり、若い記者を連れて晩年の原宅をよく訪れた。耳が少し遠くなっていたけど頭はしっかりし、新聞も本もよく読んでいた。現役の記者やメディアに批判する姿勢が無いとよく怒っていた。

原は1923年3月15日、神奈川県平塚市で4番目の長男(実姉3人、妹1人)として生まれ、家が小作農だったため神奈川県立平塚農業学校に学ぶ。繰り上げ卒業して国鉄に就職、品川駅の改札掛となった。それでも海軍に憧れ2年で国鉄を辞め、海軍経理学校へ再入学。1945年8月15日敗戦を迎え、軍国主義が終わり、日本は民主主義の国となった。再度、東京大学に入学、自由のために生きたいと考えるようになった。

原は当時、軍国青年、20歳までに天皇のために死ぬ、と決めていた”天皇教”(原寿雄の言葉)だった。その誤りに目覚めこれからは自由に生きようと共同通信社へ就職したという話は本人から聞いた。社会部記者、共同労組書記長、新聞労連副委員長を経てバンコック特派員。編集局長、編集主幹となり、株式会社共同通信社社長を務めた。社会部記者時代、交番爆破事件を公安警察官がでっち上げ、その本人をつきとめインタビューした菅生事件(1957年3月)は有名。

3月10日、原寿雄を悼む<ジャーナリスト・原寿雄さんと現代のジャーナリズムを語る会>が日本プレスセンターで開かれた。会場は超満員、小股一平(元NHK社会部記者、現武蔵野大学客員教授)、青木理(ジャーナリスト)、林香里(東京大学教授)らが原のジャーナリスト精神について語り合った。
二次会の懇親会も超満員、九州・小倉から西山太吉(元毎日新聞記者、沖縄密約をスクープ)も駆けつけ、多彩なジャーナリストたちによる偲ぶ会となった。

ぼくは2005年8月5日、銀座の居酒屋で開かれた西山太吉を励ます懇親会で初めて原と会った。「えっ!あの小和田次郎が生きていた?」と心中、仰天したことを覚えている。人柄は温厚な老紳士だったが、ジャーナリズムの話となると生き生きとしてしかも厳しかった。

「ぼくは日本人として生まれたのではない。一人の人間として生まれたのだ」と原はよく言った。「ぼくは『国益』という言葉が大嫌いだ」とも言った。原寿雄は真の自由人、コスモポリタンだった。

現在、朝日新聞のスクープ記事で安倍政権が追い詰められているが、原だったら何と言うだろうか。権力監視をジャーナリストの本懐とする原寿雄は大きな声で「今がチャンスだ。安倍を退陣に追い込め!」と叫んでいるに違いない。

えっ!?どうして「ガンと生きる」と関係があるの?と聞く人はあまりぼくという人間が分かっていないんだなあ。ぼくもジャーナリズムのはしっくれにいたのだよ。LAから原稿を送っていたしテレビのレポートもやった。ちっちゃなテレビ会社を立ち上げ、2000本、LAでニュース番組を制作し放送したことなんて誰も知らんよね。

13日は早朝から沼津裁判所の検察審査会に出て、大阪へ行った。なぜか結構、疲れる。
抗ガン剤の副作用が出始めた。声がかすれる。食欲がない。メシが美味くない。口内が荒れて熱いものが飲めない。そうか、抗ガン剤には反撃する「副作用」という伏兵がいたことにいま気づき始めた。事態は意外と深刻の様相。想定外の事態である。前回書いた「健康な病人」はお詫びして返上したほうがいいかな。
鶴橋の安ホテルで明朝の病院通いに備えて眠る。

2018年3月9日金曜日

香葉チャンの戦争

大阪で失った、と思ってばかりいたスマホが出てきた。警視庁遺失物センターから連絡の手紙が届いてわかった。冷たい雨の中、飯田橋駅前の大きな歩道橋を転ばないように上り、トボトボ歩いて、遺失物センターへ受け取りに行く。

買ったばかりの黒皮のケースもスマホと同時に手元に戻った。
もっとも失ったと思ったからスマホは設定をすべて変えたので事実上、そのままでは使えない。なぜか、新幹線の車中で拾われてたそうだ。あと3日ほど待てば実損は無かったのだが、慌てて新しいのを買ったので見つかってもほとんど意味はない。何か使えるのかどうか。今日、ドコモの幹部だった人に会うから聞いてみよう。もっとも彼自身、よく知ら知らないと思うけど。

10時から上野公園で東京大空襲犠牲者の慰霊式。落語家の初代・故林家三平夫人、海老名香葉子さんが毎年、私費で主宰している。香葉子さんの子らはじめ柳家一門が総出でイベントの進行を担当する。

香葉チャンは東京の下町で5代続いた竿師<竿忠>の娘。魚を釣る魚竿を造る職人だ。1945年3月9日夜から10日未明にかけて落とされた焼夷弾でまる焼けとなり、一家は全滅した。幸い香葉チャンは沼津に疎開していて助かったが、すぐ上の兄と二人だけ生き残り、孤児として戦後を生きた。

香葉チャンとはちばてつや、森田拳次ら満州帰りの漫画家連中とハルピンを一緒に旅した。えくぼの可愛いおばあちゃんである。林家三平夫人と知ったのは後のことだ。

カーチス・ルメイについて一言書いておく。アメリカ空軍大将、空軍参謀総長。1906年11月、オハイオ州コロンバス生まれ。日本の家屋は木と紙でできている。焼き尽くす焼夷弾戦法を考案した好戦的な軍人だった。佐藤栄作はそのルメイを航空自衛隊の育成に功績があったという理由で叙勲(勲一等旭日大受章)した。意外と知られていないが人道上許せないのではないか。一晩で10数万人も非戦闘員を焼き殺した軍人である。

2018年3月7日水曜日

ニューヨークとサイゴン

今朝も珍しい人から電話があった、「元気ですか。(ガンは)大丈夫ですか」というガンを心配してくれる声。彼は1990年代後半、先に書いたゴアの”情報スーパーハイウエイ”がマスコミの流行語になっていた時代に知りあった。ニューヨークからLAに出張に来た時、現地駐在員が紹介してくれた。ぼくがニューヨークへ行くと時間を割いて付き合ってくれ、寿司屋のカウンターバーで飲んだ。同じ昭和16年の生まれだったことで大いに盛り上がった。以来、LAに来ると声をかけてくれた。

ニューヨーク駐在、日本最大の情報通信会社の現地米国法人の社長だった。京都大学卒の英才で元左翼。ぼくらの学生時代は左翼でないと人間じゃあない、という雰囲気に包まれていた。「学生の歌声に 若き友よ手をのべよ~」NYの寿司バーで酔った勢いで恥ずかしくもなく肩組んで歌った。

今は引退しているが、本ブログを読んだそうだ。

嬉しいじゃない。昔、ニューヨークとLAで時々、付き合った人がぼくのガンを心配して電話をくれる。「ガンも悪くないな」と勝手にほくそ笑んでいる。罹ガンしてぼくが病院で七転八転、転げまわって苦しんでいる、と想像している人がいるのかも知れない。それは誤解だ。(いや、もっと先のことか)

そんなことはない。「普通の生活」をしている。妙な表現だが、「健康な病人」なのだ。まさに「矛盾」そのもの。以前にも書いたけど肝臓は自覚症状が全くない。だから「怖い」とも言えるが、罹患もガンの進行も本人はまったくご存じない。痛くも痒くもなかったのである。

しかし・・・。ガンに罹ったことが分かった時点で、自分より周囲の人の反応が敏感だった。ぼくの肝臓ガンに仰天している。いろんなコンタクトがあって、「いい機会だ、北さん、この際ブログを始めたら」と勧めてくれたのが在阪のジャーナリスト・池田知隆だ。昨年晩夏、サイゴンのマジェスティック・ホテルの屋上バーだった。

ワインを飲みながら話した池田は、毎日新聞で「余録」を書いていた記者だった。三井三池炭鉱の町の駅前の自転車屋の息子、というのもいい。1949年熊本県生まれの団塊世代。戦後、新設された国立有明工業高等学校電気工学科に進学、早稲田大学政経学部に移ったという新聞記者としてはちょっと変わり種。ホームページ作りは独学だそうだ。

彼が主宰している大阪自由大学のサイトを見て、「あっ!これ、オレがやりたかったサイト」と思わず叫んだ。そこから大阪参りを始めて、池田にいろいろ教えてもらった。ブログを始めたらいろんな反応がある。もちろん読んでくれているのはぼくの知人友人。そして彼らもまた老いを生きる現実に(思いのほか)悩んでいる。

真っ赤な地色に黄色いハンマーと鎌が描かれたベトナム共産党旗が暗い夜空に揺れていた。サイゴンは金儲け目当ての投資家で溢れていた。ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)がアメリカと戦ったメコンデルタのトンネルは観光客で賑わっていた。池田は元全共闘議長・山本義隆らの山崎博昭(京大文学部1年)君虐殺50周年の弔問団に参加したのだった。

ベトナム戦争とは何だったのだろう。
池田に会った時、ぼくはまだガンが体内で成長していることを知らなかった。

2018年3月4日日曜日

ベンチャー・キャピタル

昨日は33ひな祭り節句だが今や雛人形はテレビ液晶画面で観る時代となっている言えば数年前北海道江差町へ講演に行った時街中雛人形を集めて観光客用に町家に飾っていた最早ごく普通家庭で飾る女子も地方にはいなくなった季節感を感じさせるもがテレビでしか見られないといはつまらない世中だと思

春一番訪れで一時マンション周辺は烈風に晒されたそれでも水が温んだだろ今日は一気に気温が上がって初夏陽気春はまだ浅いけど新緑膨らみを感じ小さく胸が動く四季が巡る日本列島は年中好天気カリフォルニアより風情があっていい間もなく桜が華やかに咲くだろう

今季寒さは厳しかったなあ新幹線で大阪から米原周辺を通過する時大雪に阻まれ名古屋駅手前で数台列車待ち小田原に着いたが午前1時近くでもちろん終電車は終わっていたやむなく小田原からタクシーで茅ヶ崎まで帰ったことはすでに書いた

朝食を終え血圧を測り抗ガン剤降圧剤を飲んだところで電話が鳴った昨年九州大学教授を退いた敬愛している産学連携専門家日本開発銀行今は日本政策投資銀行LA首席駐在員谷川徹だった1995年から数年シリコンバレーで毎月新しい情報通信技術勉強会をやっていた仲間であるアルゴア・ジュニア米国副大統領が提唱した情報スーパーハイエイをなんとかキャッチアップしたい

1994
111UCLAカリフォルニア大学ロサンゼルス校で開かれたテレビ芸術科学アカデミー主催スーパーハイエイサミットで基調講演したゴア上院議員スピーチは感動的な内容だった

ゴアはデジタル革命とい言葉を使い次によに語った
もし自動車が近年に見られるコンピューターチップと同じくらい急激に進歩すればロールスロイスなど25セントで時速100万マイルくらい走れるよになるだろ

そしてぼくらが持っているスマホはそれ以上パフォーマンスを実現している

いま茅ヶ崎駅だが・・・とい谷川メッセージに慌てて返事をしタクシーを呼んだが混んでいてすぐ来てくれないやむなく外へ飛び出し車を探す日曜街を流しているタクシーなんかいるはずがない都合いいことに路線バスがやってきた10数分待たせて谷川と会九大で会って以来7年が経っていた彼はどこも変わっていなかった

谷川は開発銀行当時で竹中平蔵総務大臣郵政大臣などと同期生年代東京大学入学試験が紛争影響で無かった開銀後に名を変えたがLAに駐在員事務所を開設した、当時問題だった日米の貿易摩擦対策として米国からの対日投資を増加させ、また絶好調の米国経済の背景を探る拠点とするためだった。シリコンバレーがこの頃インターネットやベンチャーの勃興で世界の注目を浴び、そのフォローアップは重要な任務だった。初代は小門裕幸後に法政大学教授小門も谷川も若く意欲的とても張り切っていた

その後谷川は帰国して人事部から地方運輸会社副社長ポストを示されたなぜ自分が・・・米国、いや世界の経済を牽引するシリコンバレーのメカニズムや、ベンチャービジネスの本質を日本に紹介しよと熱い思いでいた谷川には、とても承服できる人事ではなかった自分の思いを実現する為には自分で道を切り開かなければだめだと辞表を出したら人事部長が顔色を変え慌てたそ現職部長が、提示された人事案件を拒否して辞めるとい事態が開銀では例ないこと開銀人事のメカニズム、組織秩序の否定に繋がるからだ。

幸か不幸か谷川夫妻には子供がいなかった夫人もあなたがやりたいことをやったらいいじゃないと辞めることに同意してくれた彼は再渡米しままスタンフォード大学客員研究員としてシリコンバレーやベンチャー研究を続けた突然退職を心配したぼくは新宿駅上階喫茶室に呼び出し、「生活は大丈夫かと訊いた
北さん、毎日が晴天下で暮らしているよ晴れ晴れとした日々ですよ
谷川は本気で両手を挙げ楽しそに伸びをしたそんなに息苦しい気持ちだった。組織を離れて長いぼくは谷川の気分を忖度し、彼が今、味わっている解放感を柿間見た。日本の大企業の幹部を経験した人間の本音に触れた気がした
老婆心とはこのことか。ぼくはすっかり安心してLAに戻った

彼はスタンフォード大学を経て九州大学総長からの要請を受け、総長補佐正教授となり九州大学産学連携の中核組織、知的財産本部を創設九大技術をビジネスに結び付ける産学連携仕事で実績を上げたまた学生にベンチャー・スピリットを与え応援する組織、ロバート・ファン/アントレプレナーシップ・センターを起ち上げている。昨年春勇退これからもやりたい産学連携や若者への教育を続けるそ谷川が取り組んだ産学連携や教育こそベンチャー・スピリット具現化だった

ロバート・ファン・センターの開所式にはぼくも参加した。キイノート・スピーカーはベンチャー精神溢れるパソナの南部靖之だたった。南部とも久しぶりの再会。予期せぬ場だったことで南部も目を丸くしていた。東北大震災で東北一帯が大津波に呑み込まれ、福島原発が溶融したのはそ、れから間もなくだった。奇しくもぼくは発生の瞬間もまた東京・大手町のパソナ本社にいた。6時ころだったと思う。南部が本社にやって来て、翌朝未明までテレビを眺めながら大自然のエネルギーを二人で語り合った。
何事も慎重で組織論理が優先する日本ビジネス社会でベンチャー意味を正確に理解できる人材は多くないそこに谷川苦労があったろそれだけにやりがいもあったに違いない余談だがボストンMITマサチュセッツ工科大学でマスターディグリー修士号を取得イギリス技術会社経営をやっていたぼく高校同級生・綾尾慎治が九大で谷川と一緒にベンチャー支援事業を手伝っていた偶然には驚いた。博多で楢崎弥之助(元衆議院議員)らと一緒に飲んだ。不思議な縁だった。

ガン話からすっかり離れたけど谷川がわざわざ遠い茅ヶ崎まで見舞いに来てくれたことは嬉しかった二人は夢中になってLA思い出やシリコンバレーで勉強会SVMF(シリコンバレーマルチメディアフォーラムなど30年前過去と現状を語り合った。周囲にぼくガンなんか気にする者なんて誰もいないもちろんぼくは一向構わない。ガンのお陰で予期せぬ人と楽しい時間が持てた

芥川賞受賞作家開高健がお気に入り蕎麦屋に案内した。谷川は天ぷら蕎麦を、ぼくは大好きなカレー南蛮蕎麦を注文したがやはり味なく大量に食べ残した抗がん剤副作用で味覚が麻痺しているは悔しい明日は茅ヶ崎病院で診察がある味覚現状はきちんと訴えよ