2018年4月21日土曜日

幻の捕虜収容所

横浜の人ならたいていの人が知っていると思う。横浜駅はJRと東急、京急、相鉄、地下鉄が集中している総合駅である。JRの中央改札口を出たすぐ側に赤い靴の女の子の像がある。台座こそ1メートルあるが、女の子像そのものは30センチもないちっちゃな可愛い像である。その脇で手を振った女性が約束のLAから帰国したノンフィクション作家・徳留絹枝だった。20年の歳月を感じさせない正義感溢れる清楚な女性である。

彼女のことは本ブログ、4月6日付の「制ガン剤再投与」で少し書いた。20年ぶりの再会だった。これこそ”ガンのお陰”だろう。彼女はLAに長く住み、二人の子供を育てた。ご主人をガンで亡くし、自分も乳がんの手術をしたことがある。ブログでぼくのガンを知り、帰国直前にわざわざ見舞いに来てくれたのである。茅ヶ崎まで来るというのを止め、ぼくが横浜まで出かけた。羽田から帰米する直前だった。駅に隣接しているホテルで話し合った。

彼女がホロコーストのサバイバーとのインタビュー『忘れない勇気』という本を持ってぼくのLAの事務所に現れたのが1998年1月22日。それ以来、ゆっくり話した記憶がない。彼女はぼくの出身地、四日市で第二次世界大戦下、捕虜収容所があった、というメールをくれた。ぼくはもちろん四日市の同級生や先輩も誰も知らない。歴史に隠されていた秘話である。夢中になって幻の捕虜収容所の話で、3時間近くがあっという間に過ぎた。

偶然なのか必然なのか。この話はもっともっと取材を続けてから詳しく書きたい。ガンが取り結ぶ縁と言っていいだろう。戦時下の捕虜たちは石原産業に600人いた。あの、四日市公害の元凶とも言える大きな会社である。米兵が300人、英兵が200人、オランダ兵が100人敗戦時までいた。

やはり歴史は今に繋がっている。捕虜の世話をしたのがぼくの四日市高校の先輩、瀬田栄之助。優しい男で、亡くなった捕虜たちの慰霊碑を建てた。彼女はぼくが学んだ南山大学に招かれ彼の話をしたそうだ。そしてその話が教科書に掲載されたという。
驚きの連続だった。

制ガン剤の副作用は相変わらずである。

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