2018年4月30日月曜日

ガンも地震予知も

桜が終わったというとマンションのつつじが一斉に咲きだした。春爛漫とはこのことを指すのだろう。思いっきり咲く満開の花を見ていると青春謳歌の時代を目にしているよう気がした。オレにもこんな時代があったなあ。
最近、古い映画を観ていると田舎の風景や(オレたちの時代の)学校の校庭、最近見かけなくなった魚屋や八百屋での買い物など見ていると懐かしくてなんとなく涙がこぼれてくる。
4月25日の診察でガンマーカーがぐんと下がったことを書いたが、現実に多くあった小さいガンが消えている。やはり朗報であろう。だからと言ってガンから逃れられたのではない。ここがガン患者の複雑怪奇なところ。主治医は抗がん剤投与を続けることを指示。1日の投与量をさらに減らしてくれた。

にもかかわらず抗ガン剤の副作用は相変わらずで味覚が失われ、食欲がないことがつづき、体重が減って痩せてきた。5キロは痩せただろう。身長161センチの短躯だから普通の身体だったら7-8キロというところか。風呂に入ると「痩せた身体」がよく分かる。あまりいい状況ではない。しかも27,28日と朝、二度吐いた。吐いた後、静養して本を読む。

『浜岡原発の選択』(2011年5月、静岡新聞社刊、復刻阪)を読んでいると原発の未解明部分がよく見えて、ガン治療の相似を思う。要するに現代の科学では解明しきれないことが多いのだ。とりわけ使用済み核燃料の処理方法が全く分からない。

想定外ではなく、当初から「(処理方法は)分からなかったのである。従って福島県内に膨大な汚染土などがそのままビニール袋に投げ込んで並べ、放置してある。一度拡散した放射能は周辺の住民を退避させただけで7年が経った。朝日新聞記者・青木美希が『地図から消される街』(講談社現代新書)を書いた。3月20日の発行で、すぐ送ってくれた。

青木は元々、北海道新聞記者だった。北海道警裏金キャンペーンで菊池寛賞、新聞協会賞を受賞した裏金キャンペーンの実力は記者、キャンペーンはいろんなマイナス面が表面化した。強制的に取材班がばらされ、青木は道新を辞めた。朝日に移ってから311福島原発被害の特別取材班に入り、原発被災地を歩き回った。一児の母親ながら男勝り(これ、差別語ならゴメン)、フットワークのいい新聞記者らしい記者だ。女突破記者と言える。

静岡新聞の鈴木雅之記者からは『沈黙の駿河湾』(静岡新聞社刊)という本送ってきた。「東海地震説40年」という副題がついている。この書の冒頭、地震予知を前提とした大規模地震対策特別措置法が現状にそぐわないことを指摘している。

1994年1月17日午前4時30分、ロサンゼルスのノースリッジを襲った大地震、翌年同月同日同時間、神戸を直撃した阪神淡路大震災。その時、ぼくは世界的な地震学の権威、カルテック(カリフォルニア工科大学)の地球物理学教授、金森博雄博士を取材した。

金森博士は「現在の科学では地震の予知は不可能」と言い「この地球という惑星が生きている限り地震から逃れられない」と断言した。地震対策とは「イチ早く逃げて被害を最小化すること」

これは津波に繰り返し襲われた三陸地方の昔からの”教え”「てんでんこ」だ。「津波てんでんこ」「命てんでんこ」~津波が来たらてんでばらばら逃げろ、命は自ら守れ。要するに「逃げて逃げて逃げまくれ。安全な所まで自分で行け」という教えである。

日本の国会では「予知連は何をしているのだ」と声高に議論していて、ぼくは違和感を覚えた。神戸が襲われた時、一時帰国したぼくが受けた違和感は今も胸に存存している。

「(ぼくら取材陣を指して)あんたら地震が怖かったら月へ行けばいい。あそこは死んだ惑星だから地震はないよ」冗談とも言わず、生真面目な表情で言われた金森博士を今も鮮明に覚えている。ガンも同じ。分からないものへ科学が挑戦するのは頼もしいが「克服」はできない、というのが現状である。

現実を取り間違えてはいけない。ガンは治らない。その認識から出発することこそ大事。副作用は少し楽になった。


2018年4月26日木曜日

抗ガン剤の効果

4月24日の夕刻、天王寺・都ホテルのロビーで泗高の同級生と会った。小雨の中、遠くから足を運んでくれたのは柔道部でともに汗を流したO、ぼくと同じ小・中学の同級生だった。奈良女子大で数学を学んだM子も来てくれた。高校時代から同じクラスでおとなしい優等生だった。それに総合電機メーカーのサラリーマン夫人となってオーストラリアで暮らしたH子。三重県ではトップクラスの四日市高校には優秀な人材が多かった。

前回書いた「四日市に捕虜がいた」話や戦後の歴史、ぼくのガンの状態、モリカケ騒動や女性記者にセクハラなどで揺らぐ安倍政権など3時間を超え話が弾んだ。同級生とは不思議なもので時空を飛び越えて話し合える存在だ。しかもそれぞれ卒業後の生活はまったく接触も関係もないのに。

ぼくは長年、ジャーナリズムという世界で生きてきた。新聞記者、国会議員秘書、フリージャーナリスト・・・アメリカではテレビ番組を制作し、マイクを持ってレポートした。長いアメリカ生活を終えて2006年8月帰国した。ちょっと特異な存在と言えるかもしれない。M子とは卒業以来だから数えてみたら58年ぶりという時間が過ぎた。それでも親しく会話が弾む。会話に夢中になって少し疲れた。

翌朝早く病院へ向かう。いつもの通り採血、採尿を終え、主治医の診察となった。ガン(腫瘍)マーカーが治療を開始した時点に比べると10分のⅠほどガンが小さくなり、一部は消えていた。さすが抗ガン剤を呑み続けた効果が数字となっている。CTの画像を見ながら医師が説明する。

「かなりいいねえ。(抗ガン剤の)効果が出ているよ」

嬉しいニュースだ。激しい副作用を訴え、さらに投薬量を減らしてもらった。親しい友人の医師に電話でマーカーの数字を話すと「取り合えず目前の”死”からは脱出できたのではないか」と言ってもいいそうだ。新大阪でテレビのディレクターをやっていた友人と会い午後6時16分発の「ひかり」に飛び乗った。9時10分すぎには茅ヶ崎へ着いた。

2018年4月21日土曜日

幻の捕虜収容所

横浜の人ならたいていの人が知っていると思う。横浜駅はJRと東急、京急、相鉄、地下鉄が集中している総合駅である。JRの中央改札口を出たすぐ側に赤い靴の女の子の像がある。台座こそ1メートルあるが、女の子像そのものは30センチもないちっちゃな可愛い像である。その脇で手を振った女性が約束のLAから帰国したノンフィクション作家・徳留絹枝だった。20年の歳月を感じさせない正義感溢れる清楚な女性である。

彼女のことは本ブログ、4月6日付の「制ガン剤再投与」で少し書いた。20年ぶりの再会だった。これこそ”ガンのお陰”だろう。彼女はLAに長く住み、二人の子供を育てた。ご主人をガンで亡くし、自分も乳がんの手術をしたことがある。ブログでぼくのガンを知り、帰国直前にわざわざ見舞いに来てくれたのである。茅ヶ崎まで来るというのを止め、ぼくが横浜まで出かけた。羽田から帰米する直前だった。駅に隣接しているホテルで話し合った。

彼女がホロコーストのサバイバーとのインタビュー『忘れない勇気』という本を持ってぼくのLAの事務所に現れたのが1998年1月22日。それ以来、ゆっくり話した記憶がない。彼女はぼくの出身地、四日市で第二次世界大戦下、捕虜収容所があった、というメールをくれた。ぼくはもちろん四日市の同級生や先輩も誰も知らない。歴史に隠されていた秘話である。夢中になって幻の捕虜収容所の話で、3時間近くがあっという間に過ぎた。

偶然なのか必然なのか。この話はもっともっと取材を続けてから詳しく書きたい。ガンが取り結ぶ縁と言っていいだろう。戦時下の捕虜たちは石原産業に600人いた。あの、四日市公害の元凶とも言える大きな会社である。米兵が300人、英兵が200人、オランダ兵が100人敗戦時までいた。

やはり歴史は今に繋がっている。捕虜の世話をしたのがぼくの四日市高校の先輩、瀬田栄之助。優しい男で、亡くなった捕虜たちの慰霊碑を建てた。彼女はぼくが学んだ南山大学に招かれ彼の話をしたそうだ。そしてその話が教科書に掲載されたという。
驚きの連続だった。

制ガン剤の副作用は相変わらずである。

2018年4月20日金曜日

元総理夫人

4月19日10時過ぎ、立川駅で砂川闘争のリーダーだった故宮岡政雄の娘さんとお茶を飲んだ。立川と言えばやはり米軍基地と砂川闘争、そして伊達判決です。1959年3月30日駐留米軍は憲法違反という違憲判決が出て、大きく報道された時、一番慌てたのがアメリカです。これでは在日米軍は全て追い出されてしまう。

ダグラス・マッカーサーJR.大使(GHQ連合国軍最高指令長官のマッカーサー元帥と同姓同名、甥にあたる)は藤山愛一郎外務大臣を大使公邸に呼びつけ、藤山外相に最高裁へ跳躍抗告を示唆した。その機密文書が米公文書館で公開され、日本人ジャーナリストが2008年に見つけた。しかもマ大使が田中耕太郎最高裁長官と会談したことも分かり、これは憲法37条(裁判を公正に受ける権利)違反だとして訴訟となっている。

立川は松本清張の『セロの焦点』の一方の舞台であり、米軍基地の街として有名だったが、今では東京のベッドタウンであり、昭和記念公園というイメージに変わった。歴史はどんどん場面を変えてゆく。その中で、米軍の滑走路の延長線上にあった宮岡の農地が今も残っている。そこを「平和のひろば」にしたいと教師だった娘さんは頑張っている。ぼくは友人の書家に書いてもらった「出会絶景」という書を贈った。

この後、都心向けて中央線を走り、スマートな和食店で元総理夫人と会食した。安倍首相の昭恵夫人がマスコミの関心の的になっているので、総理大臣夫人経験者の見解を訊いてみたいと考えたからである。10年以上前、LAから帰国した際、深夜まで彼女と飲んだことがあり、久しぶりだったが変わっていなかった。昼食をとりながら3時間、いろいろ話し合った。歯切れがいい。そこへ友人のS市長から電話。

「北岡さん、マリコは2年前、カリフォルニアで亡くなっていました」

マリコ・ミラー・テラザキ(寺崎まり子)は外交官、寺崎英成とアメリカ人女性、グエン・ハロルドの娘で、日米混血。ワシントン大使館に駐在していた寺崎英成と実兄が外務省にいて「マリコ」を暗号名に使って交信していた歴史をノンフィクション作家・柳田邦男が『マリコ』というドキュメントとして上梓している。まさに昭和戦争史の隠された逸話である。寺崎は戦後、昭和天皇の通訳を務めたことでも有名だ。

ぼくは以前からマリコに会いたかった。10年近く前、『文藝春秋』のエッセイ欄に彼女が書いていたのを読み、できれば日本へ招きたいと真剣に考え、S市長と話し合っていたのである。この話は別途、詳しく書きたい。

改札口で別れる時、元総理夫人に言った。「最近のメディアは確かに劣化していますが、真面目で優秀な若い記者が少しいます。いい記者には会ってあげてください」

2018年4月18日水曜日

ガンの不思議・不思議のお話

「ガンは治ります」「私の友人はガンになってもう10年になりますがぴちぴち生きています」「13年前、ガンになりましたが、今はなんともありません」・・・
いろんなコメントをいただきました。全て正しい。事実でしょう。
にも拘わらず「ガンは治らない」という専門家の見解も正しい。矛盾なのでしょうか。
そうじゃあない。どれもこれもそれぞれの立場で言っているのであって、それぞれ正しいのではないだろうか。

ぼくは?

ガンは治らない。でも「ガンと(仲良く)生きてゆけばいい」それがこのブログを始めた真意です。
そして実に多くを学びました。ブログを真剣に読んでくださる人、ちらっと読んですぐ離れる人。初めて読んでコメントを下さる人。もちろん読まない人がほとんどでしょうが。
まさに人さまざまなのです。

ただ「ガン」といううす気味悪い病気の怖さを皆さん意外とリアルにご存知で、「北岡の命も長くないなぁ」と心中、思っている人が多いと思う。だってぼく自身、友人がガンになった、と聞いてまず考えたのが、「そうか。あいつも長くないな」と思ったもんね。でも彼、彼女は今も元気に生きている。逆に全くそんな視野に入っていなかった読売同期のH君や四日市・富田浜の竹馬の友・N君の訃報を突然、聞き、驚いてお参りに行ったのも最近の話。

Hは新人で読売の金城湯池、千葉支局で一緒だったが、鼻筋がとおり肌白く、もう「真面目」の教科書のような男で長く整理畑を歩み、定年まで記者生活を全うした。ぼくが読売を辞めた後も断続的に付き合ってくれた。彼の姪がアメリカへ留学し、LAの自宅を訪ねてくれたことがある。美しく清楚な女性で、専門は「英語」、留学で英語力を磨いて帰国後、九州で高校の教師をしている。

整理記者は読者にとっては目立たない地味な仕事だが、ニュースの大小、見出しや写真の扱い次第で読みやすく新聞が生き生きとする。とても大切な仕事だ。ある意味で職人的な所があり、う~ん、と唸るような素敵な見出しを付けてくれる記者がいた。ぼくはわずか6年で記者生活を終えたから整理の経験がない。今も残念に思っている。
ある深夜、自宅に戻ってメール・ボックスに入っていた1枚のはがき。Hの奥さんからで訃報を知った。ガンの治療に大阪へ行った帰りで、はがきを手に呆然とした。

「あいつ、ガンだったのか」

体調が良くなった桜の散った4月、千葉のH君宅へ出かけた。あいつは白箱に納まっていた。その後に遺影が1枚。オレは無言で哀悼の意を示した。これがオレとあいつの終幕の場面か・・・。千葉支局時代に撮った古ぼけた写真を差し出し奥さんとHの話をした。山形出身の東北人らしい朴訥な性格だった。同じ読売で出会った同期の記者ながらHとおれではずいぶん違った人生となった。オレはあいつのようにくそ真面目に生きるのは無理だ。

息子さんが車で千葉の街を案内してくれた。”今浦島”の心境を実感しながらわずかに覚えている県庁や県警本部辺りをまぶしい気分で眺めた。1964年3月31日~12月10日、米粒のようなオレの青春記者時代が閉じ込められている。12月の異動で木更津通信部へ赴任した。23歳、独身だった。凍り付く寒さの中をカメラを肩にかけオートバイを飛ばし、火事場を取材した。キンセイカイというヤクザの子分が迎えに来て、親分の脅かしにあったりした。確か美空ひばりの公演がぼくの記事でパアになった時のことだ。

でも、こう書いているご本人が心の奥底で「(オレは)未だ死なない」と無意識に信じていることがガンである。これは高齢化社会を生きる世代の本音ではないだろうか。「日本人100歳」というのは百貨店のセールス・プロモーションの垂れ幕みたいなもので、あんまり一人一人には意味がない。やはり生き死にはそれぞれ個人の寿命であって、誰も知らない。ぼくも知らない。いや、神も知らないのではないか。

4月4日再開した制ガン剤投与の副作用は以前より、ちょっと軽くなったが、それでも味覚が失われていることは結構、シンドイよ。声のかすれもあるし、今朝はほんの少々食べたおかゆで、吐きそうになり慌てて吐き止めの薬を飲んでベッドで寝ていたらかなりすっきりした。

ベッドで竹馬の友、Nの人生を思った。鞍馬天狗のチャンバラごっこをやり、メンコで遊び、伊勢湾で泳いだ。浜でどんど焼きがあって、切り餅を焼いた。食べたら風邪ひかなくなる、んだって。Nの親父は全販連(後に全農に吸収)の中堅幹部で、部屋がいくつもある豪勢な旅館を借家に住んで、シェパードを飼っていた。同じ借家だがおれの家の倍はあったなぁ。あの犬に噛まれて以来、オレはシェパードが苦手になった。。

Nは早稲田大学を出て上場企業の海外駐在員だったが、人のいいお坊ちゃん的な所が甘かった。会社を辞め、独立し、自分の会社を設立した。騙され、会社が倒産し、借金まみれ・・・以降は裏社会のイカガワシイ連中とも付き合っていた。

2018年4月14日土曜日

死のイメージ

「ガン」だと言われ、キョトンとしたのが昨年12月9日。
「このオレがガンか」
主治医に言われるまま入院し、二つあった大きなガン細胞を肝動脈を塞ぐことで死滅させることに成功したことはすでに本ブログで書いた。しかし・・・。だからと言ってガンが死滅したのでも消えたのでもない。肝動脈を塞いだ(兵糧攻め)ことで、ガン細胞の活動を抑えることはできた。だが、またガンが再発する可能性が高く、その度に兵糧攻めの手術を繰り返しているとその手術の効き目が無くなって来るのだそうだ。

それだけでなくぼくの体内のガン細胞は他にいくつも見つかっており、このガン細胞の全活動を抑え込むことが必要で、そのためには制ガン剤投与が必至となる。3月29日、副作用が厳しいため一時、休止した投与を4月4日から再開した。制ガン剤は今までの3/5と量を減らしてもらった。お陰で副作用は少し軽くなった。

と言っても再開後、胸のムカムカ感が収まらず、昨13日朝、二度にわたって吐いた。今も食欲がない。喉のカスレも出てきている。
生涯、このガンと共生する、ということは表現は簡単だが、現実は結構、厳しい。

幸い腫瘍マーカーの数字はグンと落ちている。いい傾向だ。制ガン剤が「効いている」証左と言える。
「ガンに罹る」ということは未だ「死のイメージ」が強く、多くの知人友人が驚き、強く反応したのは全く正しい。ぼくが知らなかっただけだ。ガンは今も「死に繋がる恐ろしい病気」なのである。

そこが分かるまで2か月を要した。「トロイなあ、オレは」自分の無知に呆れ、制ガン剤を睨みつけながら朝晩、ぐっと呑み込んでいる。部屋の小さなごみ箱は薬を包んだ残紙で溢れたので大きな燃えるゴミ袋に移した。

2018年4月9日月曜日

寛解と完治②

言うまでもなく医学は素人にとって難しい。臨床医や医学研究者は厳格に言葉を使う。前回書いた「寛解(かんかい)」と「完治」について9日、ガン切除の経験がある友人の臨床医から解説的なメールをもらったのでそのまま転載する。
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 医学用語はかなり難解なところがありますが、「寛解」という言葉は20年位前は、がん領域では、原則として血液のがんである白血病に使用していたように思います
 
私が専門とした消化器癌では、手術その他で局所的に癌が消失した場合は「一応治癒」しかし転移があるかどうかは不明ですから、5年間経過を見て、転移がなければ、「治癒」(完治)としたものでした。(つまり癌治療では5年生存率が重要視されました)

しかし、消化器癌でない乳癌であれば10年は経過を見た方がよいとの意見が主流で癌によって治癒判定をするための条件が少し違ったように思いました。
 
消化器癌はX線検査や内視鏡検査などにより局所の病変を正確に判断することができ、また多くが手術で肉眼的にも確認できましたので、「寛解」という言葉はほとんど必要なかったように思います。もし局所に癌細胞が少し残った場合で、その人が長期生存した時には、「担癌長期生存例」と表現しました。

 肝癌の場合にはどうかというと、すこしややこしい問題が生じます。腫瘍マーカーが正常になり、画像診断で癌陰影が消失したとしても、それが局所の「治癒」につながるかどうかが判定出来ないためです。Stage 3であれば癌細胞は残るだろうとの想定の下に、長生きしても「寛解」という言葉を使わず、「担癌長期生存例」の範疇に入れるのではないかと思います。(「寛解」という言葉を使用してもよいのではないかと内心は考えていますが・・・)

 貴兄の肝癌については私はほとんどわかりません。なぜなら、私の肝癌についての知識はB型またはC型肝炎からかなりの期間を経て(多くは肝硬変を経て)悪性化したものについてであり、貴兄のものがアルコール性のものであれば、血清肝炎由来のものよりも治療成績がよいと思うからです。

 肝癌ですから、治療方法は同じようなことを行いますが、貴兄の場合には「ガンと共に生きる」という可能性が大きいと推測しています。ただアルコールは絶対に止めることが条件になりますが・・・。

 化学療法は苦しいものです。でも貴兄の場合には希望をもって頑張ってくださることをこころより願っています。 「ガンと共に生きる」・・・これは心理的には大変なことですが、それを受け入れて活躍してくれることを祈っています。

寛解と完治①

在米の徳留絹枝さんからの突然のメールで、いろいろ知ることができ、近々、お会いできることになりました。わざわざ茅ヶ崎まで見舞いに来てくださるそうだ。
意外や意外。これがブログの面白さか。それとも「ガンの脅威」なのか。
ぼくはジャーナリズムの世界で長年生きてきたのですが、驚くべき事実が時として”向こうから”目前に現れます。それほどガンは知名度抜群、しかも「死のイメージ」が強烈で、その割に多くが生きている、という妙な病気。ガンを患って10年過ぎて悠々と生きている人がたくさんいます。でも「治った」と思っていいる人は少ない。

以前書いたが、医学界では「寛解(かんかい)」という言葉があるそうです。「完治」
ではなく「寛解」。一見、治ったように見えるがいつ再発するか分からない、ことを指す。完全に病気を克服した場合は「完治」という。ここで間違ってはいけないのだが、
「寛解」と「完治」は根本的に違う状態、ということです。

もちろんぼくの場合、まだまだ「寛解」にはほど遠い。たぶん生涯、ガンを抱えて生きてゆくことになろう。だから「ガンと生きる」のである。それがようやく理解できてきた。
4月4日の診察ではマーカーは順調に下がってきている。グラフを見せてくれたが、マーカーは極端に右下がりを描いている。体内のガンが小さくなってきていることを示す指標だ。来週、CTスキャンで確認するともっとわかるそうだ。楽しみが増えた。

制ガン剤投与再開で副作用を心配しているが、今のところ軽微で、大きな問題はない。
その日は天王寺の都ホテルに泊まった。早朝、名古屋へ出て浜松でガン・サバイバーと会い、ガンを巡って人間の生き方を話し合った。

昼はお茶で有名な島田で会食。その後、東海道を南下、三島まで行った。その間、お腹がゴロゴロして、ちょっと心配。この列車はトイレがない。吐き気も少しした。こうなると本を読む余裕もなく優先席の隅に持たれてじっと各駅を数えながら三島へ向かった。
富士市は富士川⇒富士⇒吉原⇒東田子の浦と停まってようやく沼津圏内に達する。吉原では昨年、オカリナの先生に習ったことを想い出し懐かしかった。三島駅についてトイレに飛び込んだ。

2018年4月6日金曜日

制ガン剤再投与

4月4日主治医の診察で、ガン・マーカーが急激に落ちているとグラフを示され説明を受けた。マーカーが落ちているという事は体内のガン細胞が縮小していることを指す。来週、CTスキャンを受ければよりはっきりするそうだ。

この間、副作用に苦しんできたが、ガン細胞も制御されつつあるのだ。ぼくはこれまで「抗ガン剤」と書いてきたが、臨床医たちは「制ガン剤」という言葉を使う。意味はまったく同じなのだが、「抗」は抗う、というイメージが強く、「制」は制御というニュアンスを感じる。「ガンと生きる」ぼくとしては「制ガン剤」と言った方がいいように思うようになった。これからは制ガン剤と書こう。まさに「ガン・コントロール」である。

マーカーは落ちているが、医師は制ガン剤の投与を再開する、と告げた。ただこれまでより量を減らし従来の3/5にするという。制ガン剤は続けることが大事、再開はやむを得ない。ガンと平和共存するため避けられない措置だ。副作用に苦しむことを覚悟で、制ガン剤投与再開を受け入れざるを得ない。

診察が終わって早めに病院を出られた。ホテルは四日市の都ホテル。近鉄経営の高級ホテルだ。LA駐在員で帰国後、役員に出世した友人に頼んで取ってもらった。診察日が高校の同窓会とぶつかって、出るつもりでいた会合に出られなくなった。せめてホテルだけでも四日市にしようと思ったからである。

新大阪から新幹線は東へ突っ走る。米原から岐阜へ至る車窓に満開の桜並木が遠望できた。しばし鑑賞してスマホをチェックした。と、珍しい人からメールが入っていた。20年も前にLAでホロコーストを生き抜いたユダヤ人をインタビューして書いた『忘れない勇気』(潮出版社刊)の著者。ビジネス駐在員夫人で、シカゴの大学院で修士号を取得した。徳留絹枝という。ご存知かな。真面目にアメリカでアメリカを勉強した勤勉な女性である。美しい人ということも添え書きしておこう。

その彼女からの見舞いのメールだった。彼女の許可を求めたうえ全文、転載する。
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今日、インターネットで今の日本の政治状況を伝えるサイトを幾つかサーフしていて、北岡さんのことに触れたページを見つけ、お病気のことを知りました。

昨年末癌が見つかったそうで、いろいろ心に思うことがおありだろうと想像しております。

私の夫も2009年に肺がんが見つかり、故郷の鹿児島で治療をするために31年住んだアメリカから二人で帰国しました。5年間、心優しい家族や良き友人に囲まれ、治療もありましたが概ね平穏な暮らしができました。その間生まれた2人の孫の顔を見るためにアメリカに旅行することもできました。本当に病状が悪化したのは最後の2か月で、2014年4月に亡くなりました。その後は、故郷の仙台で95歳の父と暮らしましたが、その間私自身も乳がんの手術をしました。そして娘夫婦の熱心な勧めもあり、グリーンカードを再申請して昨年夏にアーバインに再移住したところです。娘夫婦と6歳と4歳の孫と暮らしています。日本を出る前に、18年間取り組んだ日本軍捕虜米兵に関する著書も出版することができました。

何やら自分のことばかりになってしまいましたが、夫と私自身の癌と共に生きたこの9年を振り返り、北岡さんにお送りしたい言葉は北岡さんがこれまで生きてこられたように、癌とも共に生きて下さい」 ということです。というか、そうしか生きられないと思います。

ご家族や友人の愛に包まれ、良き日々を過ごされますよう、心からお祈りしております。

徳留絹枝

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彼女が住むアーバインという街はロサンゼルスのダウンタウンからゴールデン・ステイツ・ハイウエイ(国道5号線)を車で1時間ほど南下、元はオレンジ園やイチゴ畑ばかりの農業地帯だった。そこが開発されて今や南カリフォルニアでもっとも美しい最先端技術地域となっている。UCI(カリフォルニア大学アーバイン校)が広大な敷地にあり、キャンパスには白人より黒人より、アジア人が一番多いという新興大学である。何度もGolfに遊んだ。日本の企業、駐在員も多い最も発展し続けている都市である。近くにマツダ自動車の米国現地法人の本社がある。

1997年11月10日、『忘れない勇気』の初版が出て、さらに再販された。表紙裏に彼女の署名がある。翌1998年1月22日、その本をいただいた事が本棚に並べていた書を手に取って確認できた。20年前、ぼくの事務所兼スタジオを訪れてくれた。

地味ながらいい仕事だと思う。駐在員夫人の”手並みぐさみ”的な見方をしていた自分を大いに恥じた。その後、米兵捕虜を日本へ招くなどでぼくは彼女の言動と心優しさを仄聞していたが、まさか、今になってブログを読んでメールをくださるとは予想外。ガンのお陰、というのも変だが、事実、最近こうした展開が多い。
彼女は4月、夫の墓参りに帰国するというので帰米前に会えれば嬉しい。

翌早朝、特急で名古屋へ向かう。なぜか故郷の風景が以前と違って見えた。名古屋駅構内できしめんを食べた。美味しいな、と意識的に思わせながら実際には味覚は未だ戻っていないことを確認した。
ガンは怖いし面白い。



2018年4月3日火曜日

生きている昔

携帯電話に残された名前。朝、返信の電話をかけた。
彼は元々、日本社会党中央本部の国民生活部長だったが、党勢が傾き、書記長だった江田三郎に言われて本部書記を辞めた。公害研究会を立ち上げ、全国を歩いた、いわゆる市民派運動家の親分のような男。政局となると夢中で院内外を動き回るクセが抜けない。
「いや、昨夜、久しぶりに文さんとメシ食っててね。文さんが「北さんのことが書かれている」とある本を示して見せたんだ。なんとか言ったなあ、元新聞記者。いろんな本書いている人。その人の本に北さんの事が書かれていた。それで話題となってね。電話したんだけど繋がらなかった」
文さんとは禁煙運動に人生を賭けた市民運動家。運動を始める前はヘビースモーカーだった。

元新聞記者の書き手はいっぱいいる。本多勝一、内藤国男、斎藤茂男・・・。いろいろ思いを巡らせて、ハタっと気付いた。ポンちゃんと呼ばれた社会部記者。美空ひばりを書いた『戦後 美空ひばりとその時代』が抜群にいい。吉展ちゃん事件を掘り下げた『誘拐』、静岡県の山奥、寸又峡に逃げ込み、人質をとってたて籠った金嬉老事件の『私戦』などノンフィクション作家としていいドキュメントを書き残した。

読売では先輩にあたるが、面倒見のいい人で、ぼくがフリー・ジャーナリストになった時、雑誌の編集長などを紹介してくれた。
「本田靖春」とぼくは言った。
「本田靖春じゃあないか。本田さん。ぼくの読売の先輩記者だ」

彼が以前、『ロサンゼルスの日本人』というノンフィクションを上梓したことがある。1か月ほどロサンゼルスに滞在して書いた人物紹介ルポだった。多くがぼくの紹介だったので当然のようにぼくの名が出てくる。

LAダウンタウンにメインというなんとなく怪しげな雰囲気の地区があり、夜ともなると人通りが途絶える、ちょっと危ない感じで、ビジネス駐在員らは避ける。このメイン通りでカウンター・バーを開いていたミッチャンという日本人女性の店に案内すると本田はすごく気に入り毎夜顔を出して一緒に飲んだ。

それで文さんとぼくを話題にした訳だ。なぜか最近、「昔」の話が多くなっているなあ。これも高齢化現象の影響か。でもその「昔」が今も生きていることが素晴らしい。

その日、4月1日深夜、自宅に戻るとブログに対するコメントがラスベガスから届いていた。元大分新聞記者だった男で、人はいいが、記者としてはイマイチという感じ。Golfはめちゃ上手かった。今はカリフォルニアとネバダの州境で、カジノの現役のディーラーをやっているという妙な奴。見舞いメールの一種だ。全文掲載する。
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北岡さん  術後の経過はいかがですか?
自宅療養中なのでしょか?

10年前に知人から頂いた本の中に北岡さんの力作「13人目の目撃者」を見つけ
久し振りにのめり込んで拝読しました

事件を取材中に本にしょうと思って克明に時間を書き留めていたのか それとも記者の習性で
取材前に日時を記録していたのか また本を書くにあたって後から記憶をたどって時間を割り出したのか、とにかく事件記者の凄さに感嘆しました
それと行間に貴兄の正直な性格がモロに出ていたのもこの本に引き込まれた要因と思います

本の発行から2年後に小生はLAでメデイアの仕事をすることになり、あの当時この本に出会っていたら「三浦事件から〇〇年ロスの日系社会の今」みたいな番組を企画し貴兄に出演のお願いをしたかもしれません

白内障で本を読むのが難しいなか夢中で没頭できたのは久し振りでした
ありがとうございました

安倍隆典の「三浦和義との闘い」ジミー佐古田の「疑惑の仮面上下」もあったので
日本で読もうと思ってます


今週4,5,日  ラスベガスでおよそ20年ぶりIさんに会います
ロス時代の話に花が咲きそうです


2018年4月2日月曜日

五味川純平と囲碁

ガンが発見されてぼく自身驚いたけどその後の経過は本ブログに綴ってきた。ほとんど毎日起き、寝た日誌風事実、ぼくが考えた、感じたこと。友人との見舞い、再会が今も続く。

2006年8月、米国から帰国して、日大国際関係学部の教員にポストを貰った。その仲間もぼくのガンはほとんど知らなかった。気づいて仲の良かった同僚の教授3,4人に簡単なメールを送った。すでにガンで急逝した教授もいたが、最近、ガンで休講している国際文化学科の女性教授もいる。

インドネシア文化を生涯のテーマにしている文化人類学者、Y教授。教員としてキャンパス人となった初期のころ、戸惑うぼくにいろいろ導いてくださった。彼は立教大学を卒業してから米国中西部の大学へ留学した。現地で結婚、子供も生まれたが、不幸なことに夫人がガンで亡くなった。以来独身。帰国して日大で教えてきた。
2015年8月27日、彼がインドネシア行きに誘ってくれた。バリ島の空港に出迎えに来てくださった彼はバンドン大学で客員講演、ユドヨノ元大統領のスピーチを聴く機会を与えられ、最前線の来賓席で聴いた。なかなか面白かった。学生がユドヨノ元大統領を熱狂的に歓迎していた光景に日本との差を思った。
バンドンからジャカルタまで鉄道で移動した。ぼくの親父がジャワを占領していた大戦中、駅長をしていたバンドン駅はそのまま今も使っていた。インドネシアがアメリカとまったく同じ「多様性の統一」を国是としていることを知った。

その彼がブログを読んだと突如、メール。
彼は隣町・藤沢市の辻堂が実家。電話したらぜひ夕食、ご一緒しようと茅ヶ崎駅まで来てくれた。オヤジの料理が美味い田舎風居酒屋へ案内した。ぼくはノンアルコールで付き合った。会食はまずまず支障なかったけど、料理を満喫するほどまだ回復はしてない。駅前で別れたが、旧交を温め再会の喜びを噛み締めた。

寝る前、映画『戦争と人間』を観た。全編3巻9時間23分の長大歴史映画だが、日本の映画俳優人総動員、文字通りオールスター・キャスト。浅丘るり子や吉永小百合、松原智恵子、栗原小巻らの若く美しい映像を楽しんだ。外交官を演じた石原裕次郎がいい。
原作者の作家・五味川純平を想い出した。原宿駅のすぐ側にお宅があり、お邪魔し五味川とよく碁を打った。彼は喉頭ガンで声を失ってから人を寄せ付けなくなった。軍事問題をテーマとする勉強会を一緒にやっていた。なぜかぼくをとても可愛がってくださった。ヘボ碁だったが、朝4時ころまで対局に夢中だったこともあった。高価なウイスキーを出してくれた夫人もぼくのLA在住中亡くなった。五味川純平については改めて書きたい。

2018年4月1日日曜日

間にあったお花見

九段の桜を上京してきた後藤正治と観て歩いた。早くも満開が終わって、散ったソメイヨシノの花びらが北の丸公園の水辺を埋めていた。すぐ側が靖国神社だ。

3月末となれば(ぼくのガンも)収まるだろうと予測して、31日、<カホゴの会>を予定していた。鎌田慧・保阪正康・後藤正治を囲んで飲む気楽な会。学士会館の中華料理を予約。現役の新聞記者含め13人が集まった。それぞれ知られたノンフィクション作家や研究者だが、若い記者や編集者は名刺交換。ぼくらは「お久しぶり」といった感じ。飛び入りの政治学者がいたが、彼も会いたかったノンフィクション作家たちに会えて喜んでいた。

みなさん、(ガンを)心配してくださっていたので、ぼくが今回の罹患、抗ガン治療の経過を報告。抗ガン剤とはガン細胞を標的にしているのだが、同時に自分の健康な細胞まで攻撃する。だから現実に抗ガン剤を投薬し続けると副作用が出てくる。ぼくの場合、それが厳しく出て、今回は1回休みをもらったので元気を取り戻した、と語った。

話題はいろいろあったけど雰囲気は和気藹々として、議論し自分が持っている問題点を話し合った。牧久が書いた『昭和解体』が話題となった。国鉄分割・民営化の過程を労使・政官の側面から詳しく書きあげた。牧は元日経社会部記者。常盤クラブ(元国鉄記者クラブ)担当として、国労と国鉄当局の対立抗争をナマ取材した。
また、保阪が西部邁の自死(2018年1月21日)を話題にしたことに驚いた。札幌で子供の頃からの友だちだったそうだ。西部は1960年安保闘争ではブント(共産主義者同盟)の活動家で、後に保守思想に変った。
後藤正治と牧久とタクシーで東京駅へ出て東海道線下りに乗って茅ヶ崎まで帰った。ニュース・ソクラの土屋直也が送ってくれた。実に面倒見がいい記者だ。ぼくと土屋の関係も不思議な縁だった。