2018年4月18日水曜日

ガンの不思議・不思議のお話

「ガンは治ります」「私の友人はガンになってもう10年になりますがぴちぴち生きています」「13年前、ガンになりましたが、今はなんともありません」・・・
いろんなコメントをいただきました。全て正しい。事実でしょう。
にも拘わらず「ガンは治らない」という専門家の見解も正しい。矛盾なのでしょうか。
そうじゃあない。どれもこれもそれぞれの立場で言っているのであって、それぞれ正しいのではないだろうか。

ぼくは?

ガンは治らない。でも「ガンと(仲良く)生きてゆけばいい」それがこのブログを始めた真意です。
そして実に多くを学びました。ブログを真剣に読んでくださる人、ちらっと読んですぐ離れる人。初めて読んでコメントを下さる人。もちろん読まない人がほとんどでしょうが。
まさに人さまざまなのです。

ただ「ガン」といううす気味悪い病気の怖さを皆さん意外とリアルにご存知で、「北岡の命も長くないなぁ」と心中、思っている人が多いと思う。だってぼく自身、友人がガンになった、と聞いてまず考えたのが、「そうか。あいつも長くないな」と思ったもんね。でも彼、彼女は今も元気に生きている。逆に全くそんな視野に入っていなかった読売同期のH君や四日市・富田浜の竹馬の友・N君の訃報を突然、聞き、驚いてお参りに行ったのも最近の話。

Hは新人で読売の金城湯池、千葉支局で一緒だったが、鼻筋がとおり肌白く、もう「真面目」の教科書のような男で長く整理畑を歩み、定年まで記者生活を全うした。ぼくが読売を辞めた後も断続的に付き合ってくれた。彼の姪がアメリカへ留学し、LAの自宅を訪ねてくれたことがある。美しく清楚な女性で、専門は「英語」、留学で英語力を磨いて帰国後、九州で高校の教師をしている。

整理記者は読者にとっては目立たない地味な仕事だが、ニュースの大小、見出しや写真の扱い次第で読みやすく新聞が生き生きとする。とても大切な仕事だ。ある意味で職人的な所があり、う~ん、と唸るような素敵な見出しを付けてくれる記者がいた。ぼくはわずか6年で記者生活を終えたから整理の経験がない。今も残念に思っている。
ある深夜、自宅に戻ってメール・ボックスに入っていた1枚のはがき。Hの奥さんからで訃報を知った。ガンの治療に大阪へ行った帰りで、はがきを手に呆然とした。

「あいつ、ガンだったのか」

体調が良くなった桜の散った4月、千葉のH君宅へ出かけた。あいつは白箱に納まっていた。その後に遺影が1枚。オレは無言で哀悼の意を示した。これがオレとあいつの終幕の場面か・・・。千葉支局時代に撮った古ぼけた写真を差し出し奥さんとHの話をした。山形出身の東北人らしい朴訥な性格だった。同じ読売で出会った同期の記者ながらHとおれではずいぶん違った人生となった。オレはあいつのようにくそ真面目に生きるのは無理だ。

息子さんが車で千葉の街を案内してくれた。”今浦島”の心境を実感しながらわずかに覚えている県庁や県警本部辺りをまぶしい気分で眺めた。1964年3月31日~12月10日、米粒のようなオレの青春記者時代が閉じ込められている。12月の異動で木更津通信部へ赴任した。23歳、独身だった。凍り付く寒さの中をカメラを肩にかけオートバイを飛ばし、火事場を取材した。キンセイカイというヤクザの子分が迎えに来て、親分の脅かしにあったりした。確か美空ひばりの公演がぼくの記事でパアになった時のことだ。

でも、こう書いているご本人が心の奥底で「(オレは)未だ死なない」と無意識に信じていることがガンである。これは高齢化社会を生きる世代の本音ではないだろうか。「日本人100歳」というのは百貨店のセールス・プロモーションの垂れ幕みたいなもので、あんまり一人一人には意味がない。やはり生き死にはそれぞれ個人の寿命であって、誰も知らない。ぼくも知らない。いや、神も知らないのではないか。

4月4日再開した制ガン剤投与の副作用は以前より、ちょっと軽くなったが、それでも味覚が失われていることは結構、シンドイよ。声のかすれもあるし、今朝はほんの少々食べたおかゆで、吐きそうになり慌てて吐き止めの薬を飲んでベッドで寝ていたらかなりすっきりした。

ベッドで竹馬の友、Nの人生を思った。鞍馬天狗のチャンバラごっこをやり、メンコで遊び、伊勢湾で泳いだ。浜でどんど焼きがあって、切り餅を焼いた。食べたら風邪ひかなくなる、んだって。Nの親父は全販連(後に全農に吸収)の中堅幹部で、部屋がいくつもある豪勢な旅館を借家に住んで、シェパードを飼っていた。同じ借家だがおれの家の倍はあったなぁ。あの犬に噛まれて以来、オレはシェパードが苦手になった。。

Nは早稲田大学を出て上場企業の海外駐在員だったが、人のいいお坊ちゃん的な所が甘かった。会社を辞め、独立し、自分の会社を設立した。騙され、会社が倒産し、借金まみれ・・・以降は裏社会のイカガワシイ連中とも付き合っていた。

1 件のコメント:

  1.  N君はたぶん僕も知っているはずだが、もう記憶にない。君の富田浜の家は懐かしく思い出す。海岸まですぐ歩いて行ける距離だった。いま考えると、津波が起きたら恐ろしいことになったと思う(笑)。僕はあのころまだ泳げなかった。水とか海とかいうものに親しむ機会がなかった。大学に入って、思い切り海になじんでやろうと思って、伊豆の戸田というところに40日間遊びに行った。たった一人で毎日毎日泳いでばかりいた。あるとき気がつくと泳げるようになって、遠泳大会に参加したりした。懐かしい。N君の冥福を祈る。

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