2018年2月25日日曜日

抗ガン剤投与

2月14日から始まった治験治療は、新しい抗ガン剤の投与と点滴で始まった。血圧が高いと良くないそうで、降圧剤を飲んでいる。
2,3日前から喉がかすれ、唇の下部に痛みが生じてきた。副作用なのかどうか。今度、主治医に訊いてみよう。

食事はできるだけ時間通りに採る様に心掛けているが、正直言ってあまり美味しくない。酒を止めた所為だろうか。ガンになって食事の楽しみが無くなったのは大きな損失ではないか。

立花隆の本を脇に置いて、柳田邦男著『ガン回廊の朝』(講談社刊)を読み始めた。少しはガンについて真面目に勉強しようとまず手元に持っていた同書を開いたのである。

1978(昭和53)年1月から『週刊現代』に1年間、連載されたガン研究者たちの挑戦ドキュメントだが、30年前のものにしては今でも十分示唆に富む内容で時代の遅れを感じさせない。技術は飛躍的に進んだはずなのにガンに取り組んだ医師たちの挑戦は今に続いているからだろう。

国策としてガン撲滅(「ガン撲滅」という言葉はあまり使いたくないけど)に取り組むため国立がんセンターが開院したのは1962(昭和37)年。池田勇人首相の時で、本人がそのガン・センターで亡くなったのは皮肉としか言いようがない。

胃ガンが日本人には多かった。患者は殺到した。柳田は週刊誌で連載した後、講談社から『ガン回廊の朝』として上梓した。初版が1979(昭和54)年6月30日、ぼくの手元にあるのが翌80年7月、18版となっているからベストセラーである。
もちろん柳田の取材、執筆が確かで、読み物として面白いのも事実だが、同時にそれほど「ガン」に対する国民の関心が高かった証左ともいえる。編集者はぼくの旧友だった。



2018年2月23日金曜日

消えたスマホ

ガンの治験治療のため大阪通いが続いている。命に係わるとなると文句も言っていられない。2月21日は朝8時08分小田原発の「ひかり」に乗らないとアポがある12時に病院へ着けない。ところが前夜、飲んだ睡眠導入剤の所為か、目覚めたのが7時40分。これでは茅ヶ崎からでは絶対、間に合わない。

慌ててタクシーを呼び東海道線下りに飛び乗り、大阪へ着いたのが午後2時。大幅に遅れたがコーディネーターは怒りもせずにこやかに待っていてくれた。この日は血圧、採血と採尿、それに医師の診察がある。主治医は外出していて代診だった。
血圧がちょっと高めなので降血圧剤をきちんと飲むように指示された。

その翌日、ガンとは無関係だが、またも大失敗。堺筋本町で会う約束で急いだのが裏目に出たのか。なぜか分からないけど、スマホが消えた。なぜかイヤホーンだけがポケットに残っていた。

今の生活でスマホがないと電話ができないほかパソコンやI-pad, I-potが使えない。全てスマホから発するWiFiの電波を捉えてインターネットへはいるからパソコンなど通信機器はすべてアウト。静岡駅でなんとか公衆電話を探して細かい銭に両替して、ようやく会う予定の人と連絡が取れた。公衆電話のお世話になるとは何年ぶりか。冷や汗タラタラの怖い話。

2018年2月19日月曜日

珈琲一杯の至福

2月19日(月)8時20分に病院に着いたら未だ受付が始まっていない。10分ほど待たされて受け付けてもらい、主治医の部屋の前で待った。彼は元順天堂大学教授だった肝臓の専門医であり、今は茅ヶ崎市にある大きな総合病院の院長である。医者ぶらない柔らかな人格、日本ペンクラブのメンバーだというから文人の一面もあるはず。
大阪での治験治療の結果を報告し、2月中は毎週、3月に入ると隔週の診察となることを告げた。簡単な会話で終わり、近く、医師と患者のガンをめぐる往復書簡をメールで始めようと話し合った。
病院のシャトルバスで茅ヶ崎駅へ出て、北口の喫茶店に入る。半世紀前、ぼくが学生だった頃、豪華な内装の喫茶店でブレンドコーヒーを飲むのがとてつもない贅沢だった。「名曲喫茶」なんてのがあった。この駅の側のビルの2階にある喫茶店は、その面影を残している。
階段を上がるとドアの脇に花籠を咥えた陶器の黒い犬が客を出迎える。中に入ると洋風の内装で、椅子は木製だ。しかしこの喫茶店もぼくのように「老化」が進行している。珈琲一杯に焼いた食パン二切れ、それに卵とサラダなのだろう、細切りのキャベツとトマトが一切れ。それで朝食セット550円は安い。しかもこのコーヒーが実に美味しい。
至福の気分に満たされ珈琲を飲んだ。ここでベートーベンでも流れたら完璧だ。
ぼく、ホントにガン患者なのかしら。

2018年2月18日日曜日

KaHoGoの会

多くの友人知人が「ガン罹患」の報に驚き、励ましのメッセージをよせてくれる。e-mailが多い。ぼくの方から報せたのはスケジュールが決まっていて、それをドタキャンせざるを得なかった人だけに限っていた。「ガンだ、ガンだ」と騒ぐこともなかろうと思っていたから。必要な人だけ「実は・・・」とガンが見つかったことを話した。もっとも一人に話せばそれがいつの間にか伝わってゆく。

家族には・・・と言っても娘はニューヨーク駐在だし、ガンが分かった日の夜、高校2年生の孫娘と遅れていた誕生祝の会食の約束をしていたので、その場で直接、彼女に話した。ちょっとびっくりしたような顔。孫娘が両親に話し、人形町に住む家内にも伝わった。と、いうことでこのブログの冒頭書いた通り茅ヶ崎市の湘南東部総合病院へ入院した時、最初に駆けつけてくれたのが家族だった。ロサンゼルス含めて独身生活が続いていたので家族が揃ってきてくれたのがとても嬉しかった。

懐かしい人や高校の同窓生、ニューヨークの特派員、ロサンゼルスのコーディネーター、ラスベガスのカジノのディラーからお見舞いのメールが届いた。インターネットの威力である。凄い通信インフラだなあ・・・つくづく思う。期せずして多くの友人との「再会」の機会を得た。ガンも悪くないな、と内心、ほくそ笑んでいる。

今やノンフィクション作家界の大御所となっている京都の後藤正治からは自筆の手紙が届いた。抗がん剤に反対している近藤誠医師(元慶応大学講師)についての原稿のコピーや近畿大学で工藤正俊教授が取り組んでいる肝臓ガン新薬の治験治療の記事も入っていた。もともと後藤は札幌医大の和田寿郎心臓移植を追ったルポ『空白の軌跡~心臓移植に賭けた男たち』(潮出版社刊)で潮ノンフィクション賞を受賞、ノンフィクション界にデビューした。先端医療に強いし、著名な医学者らの知己も多い。

今朝、旧知のルポライターから見舞いのメールが入った。ぼくがフリーになったばかりからの古いつき合いであり、大好きな書き手である。彼はぼくのガンに驚いていたが、同時に彼もまたガンだという。なあんだ、先輩もガンですか?まさにぼくの周囲はガン患者だらけなのだ。これじゃあ健常者を探す方が難しいな。
*   *   *
北さん、ブログ、読んでびっくりしました。
最近、連絡ないなぁ、また「同窓会」やりたいな、
思っていたところでした。
つい、終わりまで熟読、再読してしまいました。
ブンヤ精神ですね。
たんたんと書かれていて、とても読み良いです。
ぼくも、同病ですが、部位がちがうので、
結構、酒は飲んでいます。
最近、やたらと同病が増えていますね。
ペストのような、日本的流行なのでしょうか。
廻りにめちゃめちゃ増えています。
これからも愛読させてください。
よませてください。
柳原和子さんは、ぼくも病院へいきました。
もう15年くらい前になりますか。
元気になってください。
北さんの名幹事役で、また、みんなで会いましょう。
            
ぼくは後藤正治が上京した時に合わせて、気の合ったフリー仲間で飲んでいる。昭和史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康もその一人である。党派性の少ないリベラルな連中で実に楽しい。真面目で優秀。しかも気さく。ぼくは勝手に「KaHoGoの会」と名付けた。水ぬるむ3月には開きたいな。言うまでもない。肴はぼくのガンだ。

2018年2月17日土曜日

黄金のワラ

ぼくが肝臓ガンにかかった、という事があちこち伝わるといろんなメールや電話が届いた。直接見舞いに来てくださる方もいる。2月16日は東京から見舞客4人がやってきた。熟女3人、間もなく高齢者層に入るだろう男性が一人。一人は有名な砂川闘争(1955-1960年代)で行動隊の副隊長・宮岡正雄の娘で今は「砂川平和ひろば」を主宰している福島京子。もう一人は32年前、極北のアラスカ州都ジュノーで取材した被爆体験を英語でアメリカ人に伝える運動「ネバ―・アゲイン・キャンペーン」に参加していた可愛い女の子・中村里美、当時22歳だった。それに里美を応援する現役の女性新聞記者と里美の運動のパートナー、男性ギタリスト。彼は昨年、直腸ガンで手術したが今は顔色ツヤツヤ、元気に回復している。

そうか。多くの見舞い客が心配して来てくださるのは、未だガンは死に至る病、という見方が一般で、のんびりしている自分の方がおかしいのか、と迂闊さを指摘されたような気になった。「間もなく死ぬ」とか「いつか死ぬ」ということと「ガンで死ぬ」ということは同じようで全く違う。「ガンによる死」はまごうことなき現実なのだ。

ということからすればもっとぼくは真剣に「死」について考えなければいけないのだろうが、どうもピンとこないな。多くの見舞いのお菓子を前に腕を組んで考えこんだ。むろんメッセージの中には「ガンは最早不治の病でない」とか「ガンは治る」という内容のものも多くある。でも医学の進歩で飛躍的に「延命」はできるようになったのは事実だが「完治」「根治」は今も不可能だそうだ。専門家の間では「ガンは治らない」

いろんなガンに関する本を読むとガンという病気には未解明な部分が広範囲にあり、「ガンは解明された」という書は一冊もないし、そう言明する専門家もいない。深夜目覚めて「死」を考え始めるといろんな文章が次から次へと浮かんでくる。「死」とは「生」の反対概念だが、実は一人の人間にとって同じことなのではないか、と考えている。そう思いつつ眠ってしまった。「生と死」~ぼくの死生観についてはいずれ詳しく書いてみたい。

ガンに関する書を読んでいて一つだけ嫌味で実に不愉快な言葉を見つけた。人間社会が吐き出す汚物を飲まされたような気分となった。「黄金のワラ」という。

ぼくが最も敬愛する先輩のジャーナリスト・筑紫哲也(故人)の闘病メモにあった。1970年代、筑紫が『朝日ジャーナル』の副編集長をしていた時、何度か一緒に仕事をした。ロッキード事件で田中角栄が逮捕された時はバンコックにいたぼくは筑紫に呼び返された。福島県の木村守江知事の汚職事件を追い、菅直人の市民派選挙をルポした。

筑紫はぼくが最も尊敬し、好きで親しみが持てるデスクと言える。柔らかく、よくしなう釣り竿のようだが、決してブレない硬骨の記者だった。威張らない。怒らない。それでいて権力の悪とは決して妥協しなかった。LAで苦労しているぼくを助けてくれたことはいつか詳しく書きたい。カリフォルニアの青空の下、知人宅のジャクージに筑紫と裸で入りふざけ合ったのが昨日の事のようだ。

筑紫の唯一の欠点と言えば希代のヘビー・スモーカーだったこと。やがて肺ガンに蝕まれた。

黄金のワラ~一定のガン治療を施した医師が「これ以上やることがありません」と患者や家族に告げる。はっきり言ってしまえば現代医学でやれることは全てやった。あとどうなるかわからない、お手上げだという極めて不都合、不遜、不合理な宣言である。患者や家族は医者にそう告げられ呆然自失、途方に暮れるしかない。

そこで登場するのが”黄金のワラ”である。患者はワラにもすがりたい気持ちで、「ガンに効く」と言われているものに次から次へと手を出す。それがめちゃ高価なもので、本当に効くかどうかも分からない。患者の弱みに付け込んで売りつけて儲けるのだそうだ。稀に「治った」ものもあるかもしれない。いや、「ある」との話も聞く。手を変え品を変え、患者の前に「これを飲めば治る」「誰それは治って元気にピンピンしている」と患者の前に”黄金のワラ”を並べ立てる。嫌らしい弱みビジネスである。商品名は書かないけれど誰も一つくらい聞いたことがあるだろう。

ガンとは人間の”業(ごう)”のようなものではないか。フト、そう思った。ぼくは黄金なんて持っていないからいいけど。せいぜい大阪・鶴橋の在日韓国人の店で買った4,500円もした朝鮮人参くらいか。

2018年2月16日金曜日

副作用

2月14日から注射、点滴、投薬と本格的な治療が始まったが、昨日になって声がかすれ始めた。副作用かもしれない。大学の治験コーディネーターに電話すると10%くらいの患者にそうした声のかすれが出る場合があるそうだ。
病院の指示により血圧を昨日から自宅で測り始めたが、145/91(15日朝)、149/92(16日)とちょっと高め。それほど深刻という状態ではない。体調はすこぶる通常の状態で問題ない。「健康」なのに「病身」とはこれいかに。どうも通常の感覚がズレる。

兵糧攻め

ガンの治療にはいろいろある。
ガンが出現した臓器の一部(または全部)の切除。根治性は高い。次いで局所療法。放射線で(ガンを)焼き切る。あるいはマイクロ波熱凝固法、エタノール注入療法など。もちろん抗がん剤を投与する方法も一般化している。髪の毛が抜けたり、吐き気が激しいなどの副作用をともなう。
もっともこれは害あって益なし、と批判している医者がいる。
ぼくが受けることになったのは医師たちが呼んでいる「兵糧攻め」。肝動脈塞栓療法(TACE)というのが専門家の呼び名だが、鼠径部の大動脈を切開してカテーテルを差し込み、肝臓のガン細胞まで到達して抗がん剤を投与、塞栓物資を血管に流し込む。要するに血管を塞ぐことでガン細胞に栄養がいかず死滅する、という技術。
ぼくが15日、76歳の誕生日に受けた手術はこのTACEである。
大きなガンは二つあったがこれが見事、死滅した。手術は成功だった。
とは言え肝臓の中には未だ多数のガンが存在する。これをどう抑えるか。そこで日本で最新の対ガン治療となる。
12月22日退院した。しかし本格的なガン対策はこれからだ。

2018年2月15日木曜日

治験治療

2018年2月14日。待ちに待ったガン治療が始まる日である。かすかに興奮の気分。
朝9時過ぎに病院へ着いてすぐ指示されたとおりに3階に上がり心電図を取りに行く。3回計った。治験コーディネーターの部屋へ行き、こんどは採血室に連れられ、普段の3倍、血液を採取した。それから採尿も。徹底的な検査至上主義である。

血液や尿には多くの身体の情報が潜んでいる。医師らはそこから情報を得て、患者の状態を診断する。
検査技師たちは次から次へとやって来る患者群を黙々とこなすだけで、無駄話は一切しない。ここにも高齢者であるぼくは違和感を感じる。なんとなく居心地が良くない。大きな検査機器を潜らされて一言も発しない。ぼくは単なる「検体」か。

多くの検査が無事済んで、それから教授の診察までなんと1間45分待たされた。椅子に座ってやることなくジッと待っている。辛抱強く。待つ。待つ。待つ。最新技術で注目されている人気の先生だけに患者が殺到しているのだろう。廊下の長椅子にはびっしり診察を受ける患者が呼び出されるのを待っている。心配そうに付き添っている人もいる。さすが笑い声はない。みんなむっつりしている。ここは病院なのだ。多くの病者が笑いもなく世間話もなく、ただむっつり黙って自分の順番が来るまで待っている。
異様だよな、ここの廊下は。

教授の診察と言ってもネットワークで送られてきた検査データを見るだけで、別に聴診器を当てたりしない。「あっ、これ、下がっているね」「うん、これはまあまあかな」など教授は検査結果の数字をモニターで見ながら独りごとのように短く話す。その間、5分か~7分くらい。

別室で注射を打ってもらった。それから2時間ほど待たされ、点滴を受ける。点滴室という専門の特別室部屋があるのです。ベッドとリクライニングの椅子がズラリ並んでいる。そこに座らされ点滴を受けた。1時間たっぷり。その後再び心電図をとって採血。血圧も測る。その間、断続的に待たされ、時間だけ空しく過ぎてゆく。ああ、76歳の晩秋。

ぼくを含めた大半の患者は、システム化された巨大な医療工場の歯車の一つ、ちっぽけな存在に過ぎない。すべての検査が終わり会計を済ませたら午後4時半を回っていた。最後にコーディネーターの女性から抗がん剤を渡され、血圧を下げる薬とともに飲み方の指導を受けた。血圧計も渡された。毎朝、測るように、との指示。

病院から釈放されたのが午後5時すぎ。午後6-7時台になると上りの「ひかり」や「こだま」の本数が極端に少ない。大部分が東京へノンストップで直行する「のぞみ」ばかりのダイヤだ。ジパングという高齢者向けの優待切符を買ったので「のぞみ」には乗れない。止む無く静岡でいったん降りて、後からやってきた「こだま」に乗り換え、小田原まで戻った。深夜、ホームでの列車待ちでは寒さがキンと身に染みた。

茅ヶ崎に着いたのは午後10時を回っていた。さすがくたびれたよ。次回は2月21日である。今度は心電図と採血だけらしい。
果たしてこれでガンが小さくなる(あるいは消えるの)のかな。しばらく大阪通いが続く。
帰途の新幹線、新大阪で買った駅弁は意外と美味かった。また、あそこで買おっ。

2018年2月13日火曜日

予期せぬ出来事

朝7時53分発のバスで茅ヶ崎駅へ出る。新聞とサンドイッチを買って東海道線下りに乗った。熱海で乗り換え沼津へ。バスで裁判所へ行く。

今日は月1回の検察審査会が開かれる。何の因果か、裁判所は去年の秋、ぼくを審査員に指名してきたのである。むろんガンとは無関係。

周知のとおり犯罪の容疑を捜査、逮捕するのは通常、警察官で、容疑者や目撃者から事情聴取し犯罪の構成、容疑の証拠固め、容疑者の逮捕などを行う。他に司法警察職員と呼ばれる海上保安官や麻薬取締官(通常、マトリと呼んでいる)も拳銃で武装、逮捕権を持つ。テレビの刑事ものの世界。

犯罪容疑が固まったら警察官らは事件を検察庁へ調書や証拠物件とともに送致する。拘束している容疑者がいたらその身柄も検察庁へ送る。身柄送致という。

犯罪の容疑者を裁判にかける(「起訴」)権力を有するのは検察官である。検事は捜査権も逮捕権も持っているが捜査する人材が圧倒的に少ないから主に公判を担当する。ただ事件によって検察庁が直接、犯罪捜査に乗り出すケースもある。政治家や行政官の贈収賄などの汚職、地位利用の権力による犯罪や大企業の経済事犯、大がかりな選挙違反、原発事故など特異な事件に限られている。

有名なのは東京地検特捜部だ。総理の犯罪と言われたロッキード事件は特捜部の検事らが田中角栄・元首相や灰色高官に迫った。ロス疑惑、三浦事件では検察官は一審で疑惑の三浦和義を有罪としたが、高裁で逆転、無罪となり最高裁で確定した。検察の敗北である。

殺人の容疑者は大手を振って市民社会に復帰した。帰国した直後、ある人権関連の集会で三浦本人と会ったことがある。言うまでもなく彼も十分、老いていた。ぼく自身、事件発生から三浦を追ったが、実に特異な人格で虚言癖の化け物のような人物だった。1984年夏、LAオリンピックが開かれた時、ぼくは『13人目の目撃者』というドキュメントを上梓した。ハリウッドからTBSやフジテレビでマイクを持ち何度もレポートした。その後、三浦はサイパンで再度、逮捕されたが、この事件については後日詳しく書きたい。

検事が不起訴とした案件を「起訴すべき」という訴えがあって審査会に持ち込まれる。一種の権力チェックの制度である。審査員は投票権を有する成人から無作為に抽出される。
なんとぼくがその「籤」に当たったのだ。予期せぬ出来事である。

審査会は9時00分に始まって午後2時すぎに終わった。
沼津からいったん三島へ戻り、新幹線・新大阪行き「こだま」に飛び乗った。
このブログは車中で書いて(打って)いる。

まさか、76歳になって車中で原稿を書く生活が日常となるとは、これまた予期せぬ出来事であった。病院で診察を待つ時間、パソコンを開けて原稿を書く。モノを書くのが商売だからこれは楽しい部類の仕事か。

明日から治験治療が始まる。

ホテルは大阪なんば日本橋。関西では「ニッポンバシ」と発音する。鶴橋や日本橋はもっとも大阪らしい猥雑な雰囲気の街だ。もっとも冷やかし歩いているのは中国人観光客ばかり。奴らも梅田周辺よりここの雰囲気が合うのだろう。ガン治療なのに大阪をぶらつく。妙な時代を生きているんだ、と好奇心多きぼくは少しワクワクの気分が盛り上がってくる。不謹慎と叱られそうだが、最新の技術の病院より、”オオサカ”を楽しみたい。今夜はなんばの黒門市場へ行こう。
米原周辺は未だ雪が目立った。先ほど京都を発った。間もなく大阪だ。

2018年2月12日月曜日

カズコ回想①

やむをえず生きる死ぬまで生きる冬 和子詠

ノンフィクション作家・柳原和子について書こう、と思っているが、なかなか書けない。本人は逝ってしまったし、ぼくとの交遊はわずか7年にも満たない。でも語り合ったジャーナリズムについては濃密だった。
いつかカズコについて書こう、書きたいと願っている。

う思いながら土曜の夜テレビで、渥美清の映画シリーズ「男はつらいよ」を漫然と観ている。山田洋次監督の人間観が随所に散りばめられている。そこが面白い。
映画を観ながら「あと何本、寅さんを見られるかなあ」と、フト、思ったりする。やはりぼくはガン患者なのか。

2018年2月11日日曜日

対ガン本の数々

狭い診察室でガンを宣告された時、なんとなく「へえ、ガンですか、ぼくが?」と医師に答えた。ぽっかり脳のどこかに空白ができたことは事実でしょう。近く死ぬのかな。自宅に戻って、ガンについて書かれた本を探してみた。

本棚にある柳原和子の『がん患者学』(晶文社刊)、『がん生還者たち』(中央公論新社刊)、亡くなる直前に再再発後の病床日記とも言える『百万回の永訣』(中公文庫)。それに柳田邦男の『がん回廊の朝』(講談社刊)。

初めて診察を受ける前日1月23日、大阪で自由大学というNPOを主宰しているジャーナリスト・池田知隆が「これあげるよ」。ポンとくれた江国滋の『おい癌め 酌み交わさうぜ 秋の酒』(新潮社刊)。題名に惹かれてすぐ読んでみたが、なんとも真っ当な、真っ当すぎるガン病床日記。食道を切除して腸に繋ぎ、回復を待つ苦しい闘病の日々。江国は絶妙な文章を読ませるエッセイスト、というのがぼくの認識だっから、あまりにもまっすぐな闘病記はまともに読んでいて息苦しくなった。せめて得意の俳句が散りばめられているのが救いか。ぼくも一句。

オレもガン 仲間になるぜ 江國さん

駆け出し時代の事件記者の同僚、Y君が貸してくれたのが立花隆の『がん 生と死の謎に挑む』(文藝春秋刊)、ドキュメント番組「NHKスペシャル」の取材、撮影を基に書き上げたガン読本だが、もっとも詳しく正確で説得力がある。ガン神話を暴き、抗ガン剤の是非を論じ、ガンとは何かを問う秀逸の書といえる。

立花はもともと東大を卒業して文藝春秋の編集者となった。退社して東大に戻り哲学を勉強。新宿・花園街でバーをやっていたという。変な奴が多いフリージャーナリストの中でも変わり種だった。『田中角栄の研究~その金脈と人脈』で注目を浴び、『中核VS核マル』で新左翼に迫った。髪もじゃもじゃの丸顔、文章はち密で鋭い。本名、橘隆志、1940年5月28日長崎県生まれ、ぼくより一つ上、76歳。”知の巨人”と呼ばれる。

『脳死』という分厚い本では、時代の推移によって変化する死の概念について見極めようとしている。立花本人とは45年ほど前、角栄研究で話題になったとき、国会担当の社会部(政治部じゃあない)記者との昼食勉強会で会ったことがある。

手元には他に戸塚洋二著、立花隆編『がんと闘った科学者の記録』(文藝春秋刊)、植松稔『抗がん剤治療のうそ』(ワニブックス刊)など知人友人が送ってくれたガンの本がズラリ。他に国立がん研究センター内科レジデント編『がん診療マニュアル』(医学書院刊)拾い読みしているが、立花本を凌ぐのは未だ無い。

次はガン患者だった友人のジャーナリスト・柳原和子について書こうと思う。ノンフィクション作家・後藤正治と3人仲良しで、親しみ込めてぼくらは「カズコ」と呼んでいた。カズコを想い出すとちょっと涙が滲み出てくる。短い付き合いで彼女は逝ってしまった。
「生」に執着するナイーヴで可愛い女だった。

2018年2月10日土曜日

誤解の誤解

意外と思ったのはぼくなりのガン共生論とガン非戦論~ガンとは戦わない、という宣言に共感してくださるメールが多かったことである。

抗がん剤の投与を猛然と批判したのが近藤誠医師(元慶応大学医学部放射線治療科)であることは有名。1996年に文藝春秋から『患者よ、がんと闘うな』は大きな反響を呼び、対ガン剤論争が起こりました。22年以上も前のことだ。近藤医師の存在をメールで教えてくれたのがノンフィクション作家・後藤正治の手紙だった。後藤は近藤医師にインタビューし、彼の主張をよく理解している。

「ガンバリズムの精神でがんと無理な闘いをすると、命を縮めることになるとはっきり主張した人」(立花隆『がん 生と死の謎に挑む』(文藝春秋刊)

これはこれは・・・とぼくは考える。抗がん剤は百害あって一利なし、か。そんなことはない。抗がん剤で治った人は多くいる。一時は死に怯えたガンから生還してピンピンしている人、以前は不治の病として死ぬしかなかった骨髄ガンが今では抗がん剤投与で延命している同期の記者がいる。延命策は効果を発揮し、罹患しても5年、10年と生きている人も周囲にいる。

ガン対策は多様で、抗がん剤投与はその一つに過ぎない。放射線でガンを焼き切る。ガン細胞に繋がる肝動脈を塞ぎ、ガンを死滅(あるいは縮小)させる。旧臘15日、ぼくが誕生日にこの手術を受けた。大きな二つのガンは死んだ。

ガンそのものを切除する手術は適用患者と不可の患者がいる。ぼくの場合は肝臓にガンが広がり切除手術はできなかった。医師の指摘では10か所くらい大小のガンが見つかっている。

ガン対策には多様な医療技術が実施されている。「最早、ガンは不治の病でない」と言い切る人もいる。現にぼくに対するメッセージにも複数あった。

多くの書が指摘しているのは「ガンは個性がある」という。なんと人間臭い表現か。
だからガン対策も一様ではない。ぼくが現役の新聞記者として札幌医大の和田心臓移植を取材していた時(1968年8-10月)、未だ同大の整形外科講師だった渡辺淳一がススキノの小さなカウンターバーで語った言葉を忘れない。

「医学は科学であって科学でない。言ってみれば人間学というような・・・。だからチャーミングなんだ」その後、渡辺は札幌医大を辞め上京、作家になってベストセラーを数多く世に出したことは周知である。渡辺も2014年4月30日逝ってしまった。前立腺ガンだった。

余談だが、渡辺が講師時代に書いた『小説心臓移植』(後に改題『白い宴』)に登場する新聞記者の一人はぼくがモデルである。酒はもちろんGolfや麻雀など渡辺は生涯、無名のぼくを可愛がってくれた。LAから帰国すると渋谷の仕事場のマンションをよく訪ねた。女優の中原ひとみや久保菜穂子と麻雀をやったこともある。

最近では分子標的剤の投与という、まことに高度医療をイメージさせる治療も行われている。これはガン細胞の異常増殖や転移のような悪さをする遺伝子からできた物質にピンポイントで狙い撃ちにする、という薬で副作用も既成の抗がん剤より少ないそうだ。
TACE(肝動脈化学塞栓療法)と分子標的薬を併用することで生存期間を倍にした実績がある。

2月9日、平昌オリンピックが開幕。北朝鮮から金正恩(キム・ジョウン)朝鮮労働党委員長が”ほほ笑み外交”を選択、美女応援団を送り込んだ。肉親の妹・金与正(キム・ヨジョン)党第一副部長もにこやかな笑顔で任川空港に降り立った。
俄然、平昌五輪は南北朝鮮・韓国の政治・外交の場と化した様相だ。今日は文在寅(ムン・ジェイン)大統領との会食も予定されている。

ガンも朝鮮半島も複雑すぎて素人にはまったく理解不能だが、そこを乗り越える叡智が政治家にあるのかどうか。医学は日進月歩、想像以上のスピードで進化している。それにしても世の中はなんと「誤解の誤解」が多いことか。

10日、石牟礼道子訃報のニュースが飛び込んできた。『苦海浄土』を書き、水俣病を告発したノンフィクション作家。高度成長政策の犠牲者としての水俣病患者たち。水俣病が公式に確認されて60年経っている。その後、経済成長政策は四日市や川崎の喘息病など数多くの公害を生んだ。そのお陰で?・・・今や日本人は美味しいモノを探しまくり、ゆったりと温泉に浸かり、可愛いペットを抱き上げ、パンダの赤ちゃん見たさに上野動物園に並んでいる。

2018年2月8日木曜日

医療コンプレックス

ぼくのガン対応の病院について少しだけ書いておきたい。もっとも最近、総合病院を訪ねた人ならご存知のことであるが。
大阪のターミナルから急行で30分の郊外。駅からバスで20分ほどの丘の上に聳え立つ。どうしてこんな辺鄙な場所に巨大な総合医療コンプレックスを建てたのか。1983年と礎石にあったからすでに35年経っている。近々、近くに新しい病院を建て、引っ越すことになっているそうだ。
2月7日と8日は精密検査の日。ぼくの身体の内部情報を採取するための検査だ。
7日は骨にガンが発生していないかどうかという検査。アイソトープを注射して、2時間後にRI検査を行う。骨に付着したアイソトープが光るのだそうだ。それでガン発生かどうかが分かる。結果は骨には転移していない。
8日は心電図と心臓・血管の超音波検査。いずれもぼくの体内の情報を確認するための検査で、予定とおりそれぞれ30分くらいで終わった。

それにしてもこの病院は巨大な医療コンプレックス。全てネットワーク化されていてコンピューター管理が徹底している。採血、レントゲン、超音波、心電図、CTスキャン、MRI・・・各セクションに専門の検査技師がいて、被験者や患者は自分が受ける検査部へ行く。そこで受けた検査結果はコンピューター・ネットワークを通じて担当医師に送られる。
ちなみに患者はリストバンド(腕輪)を嵌められ、そのバンドにバーコードがプリントされていて、患者の情報が入っている。看護師は、スーパーのレジでよく見るハンディな読み取り機で「ピッ!」とバーコードを読み取るだけ。検査に当たって患者や被験者の取り違えを避けるために看護師や検査技師に氏名と誕生日を訊かれる。いちいち面倒くさいがやむを得ない。

院内に入るとまず診察券を受け付ける機器にカードを入れる。自動的にその日のぼくの患者番号をくれる。今日は早めに来たからか「755」。受け付けは5秒ほどで済む。
治験を扱う1階の窓口に行って、愛想のいい治験コーディネーターに会う。そこから検査へのスケジュールが始まる。
心電図は男性だったが、超音波も検査技師は若い女性。コーディネーターも女性。患者様様、ニコニコ愛想がいい。話す時は床に膝まづいく。ナイトクラブの女性を想い出す。ぼくが抱いていた昔の病院の暗い悲惨なイメージはない。
検査は予約制だから予約時間に廊下で待っていると時間ぴったりに検査室に入る。タイミングを外すといろんな不都合が起きてくるだろう。ここではすでにコンピューター社会が実現している。ネットワークの下、患者は完全に病院の管理下に置かれる。1分1秒、コンピューター管理となっているから慣れない高齢者の患者は大変だ。

もっともそうした人のためにコンシェルジェのデスクがあり総合案内でいろいろ教えてくれる。
コーディネーターに尋ねたらベッドは1000床くらいだという。(後日、調べてみよう)
言うまでもなくぼくらの若いころ当たり前だったクレゾールの匂いなど一切しない。
巨大な医療システム、診断、治療、リハビリ、研究、治験などが一斉に動き出す。それが現代の総合病院の素顔である。
超音波室の前の椅子で待っていると壁のポスターが目に付いた。

最先端のがん早期診断システム がんは早期発見が大事です。PET/CT検査を受けてみませんか>

呼びかけには納得だが今やすでに遅し。ガンは「レベル4」と宣告された。末期ガンであるが、後日、主治医は「レベル3」に下げてもいいか、と。どっちなの?
肝臓ガンで実績を上げている高名な医師と面談、ぼくのデータはガン適用患者として治験患者として合格だという。
2月14日から治験治療が始まる。日本では最先端の対ガン技術と目覚ましい成果が実現している新薬だそうだ。当分、大阪通いが続く。新幹線車内で食べた弁当は意外と美味しかった。学生を前にして近代戦争史について語っていた日本大学国際関係学部が見える三島駅を猛スピードで通過した。


2018年2月7日水曜日

空虚と充実

ガンを宣告されて自宅に戻り、しばし呆然。なすべきことがない。「空虚」とはこうした状態を指すのか。
寒々とした部屋で、何分経ったか。急にやらねばならないことに気づく。「終活」~死の準備をどうするか。I-padで「遺書」とか「エンディングノート」という項を探索してみる。いろいろ書いてあるがなんとなく曖昧で実感が伴わない。息子ら一家に迷惑をかけないためにはどうすればいいか。まず脳裏に上ったのがそれだ。

居間には壁面いっぱいに本が並んでいる。ベッドルームやゲストルームも本、本、本で埋まってる。この雰囲気が本好きの自分には幸せだった。しかも多くは友人知人が書いた書である。もちろん著者署名入りの書も多い。その中にはぼくについて書かれた一章もある。
ずらり並んだ書棚を眺めコーヒーを一杯やる。充実した幸福感に包まれた。でも今は単に邪魔な空虚な存在となった。
「これでも(アメリカから)帰国する際、ずいぶん処分したのになあ」と自身に言い訳し溜息を深くつく。それに家具類。箪笥、冷蔵庫、膨大な資料類・・・アマゾンやチリやハバロフスクや東南アジアで買ったり貰ったりした諸部族、諸人種の仮面や飾り物。友人がバードウオッチングで撮った美しい鳥の写真。
でも息子一家が欲しいものは何もないだろう。棄てたくても棄てられないゴミでしかない。

急な話でこれからどうしたら良いか、先がほとんど見えない。五里霧中。主治医は「関西の大学へ行け」という。最新の効果ある注射と投薬で大きな成果を上げている最先端を行くガンを抑え込む技術がある。そこに(治療を)頼むのが一番だ。
だが取り合えず茅ヶ崎の病院でできることをやろうということで入院を指示された。12月12日入院した。現実のぼくは病気の影もない(はずの)健康なのになあ。

ぼくが受けた手術が先に書いた「肝動脈塞栓療法」。肝臓ガンは肝動脈から栄養を受け増殖するが、それを断つため、肝動脈にゼラチンスポンジを注入して肝動脈を閉鎖する。そうすると栄養がガン細胞に届かなくなるから肝臓ガンは壊死(えし)する、という。専門家の間で通常「兵糧攻め」と呼ばれているミニ手術である。20年ほど前に開発されたそうだ。(本ブログ「兵糧攻め」参照)
手術は1時間足らずで終わった。大動脈を鼠径部で切開しただけだから大きな傷はない。一晩、ベッドで静養し出血が止まったらそれで終わり。この手術は成功し二つの大きなガンが死んだ。しかし肝臓には他に10個近い大小のガンが確認されている。広範囲にガンが広がっているため切除手術はできない、と言われた。どうしたらそうしたガンを抑えることができるか。

実績がクローズアップされる話題の大阪の大学病院へ行くことになった。現時点で肝臓ガンでは一番効果があり、実績がある、とプロの評価が高い。いうまでもなく医学の世界では理論以上に実績がモノを言う。スポーツと似ているな、なんて考える。
病院の玄関に入った時、早朝なのに大勢の患者がひしめき診察や治療を待っていた。
なんとなく「充実」という言葉が浮上してきた。
大きな総合病院の患者待合室を肯定的に眺めたのは今回が初めてかも知れない。

2018年2月5日月曜日

ガン非戦論

ガン罹患を新聞のコラムに書いたら多くの人々からメールや電話をもらった。
「ガンなんかに負けるな」「北さんなら絶対、勝てるよ、がんばれ」「ガンは治る」・・・それぞれ、かなり驚いてコメントしてくる。でも、ちょっと違うんだな、ぼくは。
「ガンに勝とうと思うな、ガンと生きることが大事なんだ」と考えている。
多くの誤解があるな、と思うのはガンは細菌やヴィールスと違って「敵」ではない。
ガンは自分の身体の細胞の異常増殖である。
立花隆が『がん 生と死の謎に挑む』という書を書いた。
日本人の二人に一人がガンになり、3人に一人がガンで死ぬ。
その意味でガンは由々しき病気だが、人間はガンには勝てない。
なぜか。
ガンは自分の臓器の異常増殖だからガンを攻撃することは「自分の臓器」を攻撃することと同じである。厳しくやっつければそれだけ自分の臓器も傷つくのである。
抗がん剤投与に批判的な近藤誠医師。多くのガン医から攻撃された。でも・・・。
LAにいたころ移植免疫の専門家で、かつ臨床の医師だったぼくの友人が「ガンはやっつけなくてもともに仲良く生きればいいんだよ、北さん」と言ったことがある。彼は札幌医大胸部外科で学んだ。日本初の心臓移植をやった和田寿郎教授の最後の愛弟子だった。
和田教授に言われ、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に留学、移植免疫の研究に没頭した。
優秀な論文で世界的に注目された学究で、肝臓移植の父、トーマス・スターツル博士に乞われてピッツバーグ大学の教授となった。
後にUSC(南カリフォルニア大学)に移籍、移植免疫研究所の所長。その彼が「ガンとの共生」を言った。
至言だった。
ぼくは「ガンと闘う」のではなく「ガンと仲良く暮らす」こと。それがもっとも妥当なガン患者の生き方ではないかと考えている。
言わば「ガン非戦論」である。
なんだか国際政治と相似ではないか。

2018年2月4日日曜日

ガン細胞採取

1月29日夜大阪・鶴橋のビジネス・ホテルにチェックイン。翌朝8時、病院へ向かう。大阪には何度も行ったけど市内を巡ることは少なく車窓の風景が珍しい。
9時20分ころ病院へ着いた。入院センターで手続き、体重、身長を測って病室へ行く。あてがわれた部屋は個室、65号棟の677号室。広々として居心地良さそう。この病院ではテレビはカードを買う必要が無い。無料。10,800円の部屋が満員で入れなかったため風呂、トイレ付きの2万円を超える部屋だった。料金は予約した安い部屋並みにまけてくれた。
茅ヶ崎の病院でも同じだったが看護師(看護婦とい呼びたいけど)がみなさん若くて明るくて親切だ。ぼくの青春時代は看護婦が威張っていたなあ、と半世紀前を想い出す。時代の変化に驚く。息子が生まれた北海道大学病院では労働組合が強く、看護婦は実に高圧的だった。生まれた息子に会いに行ったら「時間外」だと取り次いでくれない。ぼくは怒った。「生まれた子供の親が初めて会いに来ているんだ、犬猫の子供じゃああるまいし」怒鳴ったぼくに頬を膨らまて新生児室へ行き、息子を連れてきてくれた。今も忘れない。その息子が今や48歳となっている。
体温と血圧を測り採血。今日は生検(バイオプシー)の日。ぼくの病んだ肝臓からガン細胞を採取し病理の専門家が調べる非常に重要な検査である。細胞の採取に当たって医師から詳細な説明があった。「インフォームド・コンセント」、これも病院側に義務つけられている。その後、生検のための点滴が始まった。
午後1時過ぎ看護師が迎えに来る。 点滴の袋とスタンドを引きずりながら1階の生検のための採取の部屋にへ行く。ベッドの脇にエコー(超音波)の機器、肝臓を観ることができるモニター。局所麻酔なのでベッドからモニターを観る事が出来た。
ガンの影が映る。医師はモニターを観ながらガン細胞を探るように注射針を進めてゆく。ガンのすぐ側に門脈と静脈があり、注射針がガン細胞に達するのを妨げる。医師は二人、交互に交代しながら慎重に注射針を進めてゆく。
時々、局所麻酔の注射をする。注射針を進める時にはちょっと圧迫感があるが、痛みはほとんどない。ガン細胞を捉えた時、「バチッ!」とちょっと大き目の音がして、注射針がガン細胞を掴んだことが分かる。ガン細胞の採取に成功。
「念のためもう一か所採ります」と医師が独りごとのように言って、針をさらに進め、二つ目の細胞を掴んだ。「バチッ!」
その間、1時間ほど。「門脈と静脈を避けて通るため時間がちょっとかかりました。ご苦労様でした」と、医師が済まなさそうに言った。こうして生検は終わった。凄い技術だなあ。
翌朝までベッドで静養。朝、採血して臓器の周辺で出血が無いかどうかを確認。正常だったのでそのまま退院となった。帰途はタクシーをやめて初めて路線バスに乗り、駅へ向かった。10時は過ぎていたのにバスは結構乗っていた。

2018年2月1日木曜日

兵糧攻め

12月15日はぼくの76歳の誕生日。午後1時過ぎから手術。とんでもない誕生祝となった。
ガンの治療法にはいろいろあって、分かり易いのがガン発生の臓器の一部または全部を切り取る方法(臓器切除)。一般的なのが抗がん剤を投与する方法。これには毛が抜けるとか吐き気など強い副作用がある。抗がん剤に強く反対する意見もある。
他に穿刺局所療法。これはエコー(超音波)でガン細胞の位置を確かめ、お腹の上から少し長い針を刺して、熱や薬でガン細胞を壊死させる治療法。放射線を照射してガンを焼き切る治療法もある。ラジオ波熱凝固療法(RFA)という。
ぼくが受けた手術は肝動脈塞栓法(TACE)と言い、鼠径部の大動脈を切開、カテーテルを入れて肝臓ガンの部位まで到達させ、抗がん剤や油性の造影剤と一緒に塞栓物質を血管に流し込む。そうすると血液が詰まり、ガン細胞に行かなくなるから細胞が死ぬか小さくなるという技術である。
手術は局所麻酔で1時間弱で終わった。
進行して肥大した肝臓ガンに有効で、手術は成功したそうだ。
その夜は右足を動かしてはいけない、と言われ、一昼夜、同じ姿勢で寝たから背中が痛かったが、大きな苦痛はない。
22日まで静養していて無事退院した。
初期の対応としては完ぺきだったと思う。