2018年3月31日土曜日

抗ガン剤一時休止③

それにしてもガン対策とは複雑怪奇で理解不能な部分と抗ガン剤との”匙の加減”という分かり易い部分がある。ということがこの数日で分かってきた。3月29日に抗ガン剤投与を止めたとたん、ぼくの体は健康へ向けて動き出す。30日になって昼食が食べられるようになった。

となると人間は正直な動物で、誰かを誘いたくなる。「あいつ、誘うおうかな」と思った。地元茅ヶ崎市を担当している女性の地方紙記者だ。ぼくの娘よりもずっと若く、記者には珍しい目の大きな美人だ。多分、30代半ばだろうな。いい記事を書いている。

ただ、ぼくの体の回復が本物かどうか、自信がない。誘うか誘うの止めようか、迷っている時、電話が鳴った。電話の向こうの声に思わず「えっ!」なんとウソのようなホントの話。誘おうと考えていた当の本人からの電話だった。そんなことたまにあるよね。

彼女は「時代の正体」という神奈川新聞の連載シリーズ班の担当記者。昨年、保阪正康が藤沢に講演に来た時、その内容を片面全面使って3回、詳細に報告したのである。テーマは「天皇と日本国憲法」だった。まさに全国紙ではめったにできない芸当だ。これが地方紙の良さ、というものだろう。

ぼくは彼女を誘って「すし善」へ行った。生前、開高健がよく行った馴染の店である。そこで「ぼく、ガンになっちゃって酒飲めないんだ」と小さな店で大きな声を出した。店主も女将さんもカウンターで寿司注文したばかりの客の夫婦も一斉にぼくを見返った。びっくり。店全体が凍り付いたよう。

「だからさ、ぼく、酒は飲めないの。でもさあ。今朝はかなり、回復して今夜は(寿司を)なんとか食べられそう」

驚いた人々(と言っても記者入れて6人のちっちゃ店)。抗ガン剤止めて3日目でしっかり健康を取り戻した。開高健記念館に神奈川新聞の(彼女が撮った)写真が司馬遼太郎の手紙と並べて展示していたよ」と店主。
「君は”司馬療並み”か。凄げえじゃないか」と冷やかした。

ぼくは開高健という作家を語った。昨夏、サイゴンの彼の定宿だったマジェスティック・ホテルのバーでワイン飲んだ話。南米アマゾンでの釣り紀行の面白さ。
城山三郎と下手なGolfをシアトルでやったことを話した。城山三郎は直木賞を獲った『総会屋錦城』がやはり面白いが、学生時代、大学祭で城山に講演してもらおうとこの茅ヶ崎市のご自宅を訪れたことがある。まだアパート住まいではなかったか。55年も前のこと。

渡辺淳一からLAに突然、電話がかかってきたことがある。「講演でシアトルに行くが北さん、Golf付き合わないか」という。城山三郎も一緒だった。大作家のお誘いというのでクラブバッグ担いで、トコトコ、シアトルまで行った。城山と組んで一緒に18ホール回った。ぼくのドラーバー・ショットが極端にシャンクしてGolf場沿いの家のガラスを割ってしまった。後日、請求書がLAに届いた。懐かしくも楽しい思い出だ。

城山三郎が終の棲家として茅ヶ崎市に住んでいたこともぼくが茅ヶ崎市を選んだ理由の一つ。丁寧に昭和史を取材した作家で、セミドキュメント風作品が多い。なかでも何度も読み直した小説に『落日燃ゆ』がある。文民首相・広田弘毅を評伝風に書いた作品である。
第28回毎日出版文化賞、第9回吉川英治文学賞を受賞した。

広田が唯一、文官として有罪に問われ絞首台に上ったのなら広田以上に戦争に加担し指導した人間がどっといる。もともと広田は外交官で、パリの平和会議に出ている。幣原喜重郎の後輩で協調派の外交官だった。彼らを軍閥が「軟弱外交」と激しく攻撃した。

権力との距離を考えた場合、処刑の対象となった官僚、政治家。例えば商工官僚・岸信介。東條内閣の商工大臣(後に軍需次官)として対英米戦の物資供給を一手に引き受けていた。現総理・安倍晋三の祖父である。岸が恩赦で釈放された経過は分からない。

城山の短編小説に『硫黄島に死す』という小品がある。1932年第一回のLAオリンピックで馬術大障害で金メダルを獲得した西竹一中佐(男爵)の生と死を描いたものだ。何度も読んだ。開高健が『ベトナム戦記』を書き、戦争の実相をぶちまけた作品も凄いが、城山の戦争に生き死んだ軍人の話も深い余韻を感応する。

久しぶりに美味しい寿司を食べ、二人の作家に話題が弾んだ。くだんの女性記者はぼくらと違う発想で取材し原稿を書いている。そこがなんとも面白い。彼女のことは改めて書きたい。
今日はソメイヨシノが満開、北の丸公園で後藤正治と花見することになっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿