2018年3月17日土曜日

副作用という伏兵

原寿雄を知っている現役のジャーナリストは今、何人いるだろうか。もちろん小和田次郎を説明できる若い記者はほとんどいないだろう。50年も前、ぼくが駆け出し記者だったころ注目されたこの名前は人気で彼の書『デスク日記』は大きな反響を呼んだ。

当時、共同通信のデスクだった原寿雄が「小和田次郎」のペンネームで書き綴ったマスコミ裏話である。裏話こそホントの話だから面白い。新聞記者やデスクはニュースの扱いで大きく見解が違う場合がよくある。特に政治記事は政治部記者と社会部記者では対立することが多々あった。デスク日記はその「書かれなかった」編集局内部の議論、対立を赤裸々に綴った。

デスク日記は1963年12月から1968年10月まで原寿雄独りで書いた。後日、みすず書房から5冊の本として出版され話題となった。今、読んでも新鮮で、まるでジャーナリストの教科書のようなスピリットに溢れている。多くの若い記者諸君に読んでほしい。

原は2017年11月30日自宅の付近を散歩していて倒れた。近所の人の通報で侃子(よしこ)夫人が駆け付けた時、意識はあったそうだ。夫人が肩を抱くようにして原を立たせ、自宅の方へ歩き出したところ老いた二人とも転んでしまった。救急車が原を乗せて病院へ運ぶ途中、救急隊員に「奥さん、ご主人はもう息をしていませんよ」と言われた。胸部大動脈瘤破裂で午後6時5分、原は逝った。享年92歳。

原寿雄は筑紫哲也とともにぼくがもっとも敬愛するジャーナリストである。

ぼくは自宅が同じ茅ヶ崎市だったこともあり、若い記者を連れて晩年の原宅をよく訪れた。耳が少し遠くなっていたけど頭はしっかりし、新聞も本もよく読んでいた。現役の記者やメディアに批判する姿勢が無いとよく怒っていた。

原は1923年3月15日、神奈川県平塚市で4番目の長男(実姉3人、妹1人)として生まれ、家が小作農だったため神奈川県立平塚農業学校に学ぶ。繰り上げ卒業して国鉄に就職、品川駅の改札掛となった。それでも海軍に憧れ2年で国鉄を辞め、海軍経理学校へ再入学。1945年8月15日敗戦を迎え、軍国主義が終わり、日本は民主主義の国となった。再度、東京大学に入学、自由のために生きたいと考えるようになった。

原は当時、軍国青年、20歳までに天皇のために死ぬ、と決めていた”天皇教”(原寿雄の言葉)だった。その誤りに目覚めこれからは自由に生きようと共同通信社へ就職したという話は本人から聞いた。社会部記者、共同労組書記長、新聞労連副委員長を経てバンコック特派員。編集局長、編集主幹となり、株式会社共同通信社社長を務めた。社会部記者時代、交番爆破事件を公安警察官がでっち上げ、その本人をつきとめインタビューした菅生事件(1957年3月)は有名。

3月10日、原寿雄を悼む<ジャーナリスト・原寿雄さんと現代のジャーナリズムを語る会>が日本プレスセンターで開かれた。会場は超満員、小股一平(元NHK社会部記者、現武蔵野大学客員教授)、青木理(ジャーナリスト)、林香里(東京大学教授)らが原のジャーナリスト精神について語り合った。
二次会の懇親会も超満員、九州・小倉から西山太吉(元毎日新聞記者、沖縄密約をスクープ)も駆けつけ、多彩なジャーナリストたちによる偲ぶ会となった。

ぼくは2005年8月5日、銀座の居酒屋で開かれた西山太吉を励ます懇親会で初めて原と会った。「えっ!あの小和田次郎が生きていた?」と心中、仰天したことを覚えている。人柄は温厚な老紳士だったが、ジャーナリズムの話となると生き生きとしてしかも厳しかった。

「ぼくは日本人として生まれたのではない。一人の人間として生まれたのだ」と原はよく言った。「ぼくは『国益』という言葉が大嫌いだ」とも言った。原寿雄は真の自由人、コスモポリタンだった。

現在、朝日新聞のスクープ記事で安倍政権が追い詰められているが、原だったら何と言うだろうか。権力監視をジャーナリストの本懐とする原寿雄は大きな声で「今がチャンスだ。安倍を退陣に追い込め!」と叫んでいるに違いない。

えっ!?どうして「ガンと生きる」と関係があるの?と聞く人はあまりぼくという人間が分かっていないんだなあ。ぼくもジャーナリズムのはしっくれにいたのだよ。LAから原稿を送っていたしテレビのレポートもやった。ちっちゃなテレビ会社を立ち上げ、2000本、LAでニュース番組を制作し放送したことなんて誰も知らんよね。

13日は早朝から沼津裁判所の検察審査会に出て、大阪へ行った。なぜか結構、疲れる。
抗ガン剤の副作用が出始めた。声がかすれる。食欲がない。メシが美味くない。口内が荒れて熱いものが飲めない。そうか、抗ガン剤には反撃する「副作用」という伏兵がいたことにいま気づき始めた。事態は意外と深刻の様相。想定外の事態である。前回書いた「健康な病人」はお詫びして返上したほうがいいかな。
鶴橋の安ホテルで明朝の病院通いに備えて眠る。

2 件のコメント:

  1. 抗ガン剤の副作用が出始めた由、楽しくないですね。面白くないですね。実は私も膀胱癌の再発を避ける目的でBCGワクチンを注入する免疫療法を三ヶ月置きに続けています。来週もまた行います。副作用として高熱や気分の悪さが出ます。そこに余計な事に先週から胸や背中の痛みを感じるようになりました。昨日ホームドクターに診察して貰ったら胃酸の逆流が起きているそうで、それを治すための薬を貰いました。こんな状態で来週の免疫療法を行うと、どんな合併副作用が出るのかと心配です。しかし、今日一つの記事に出会いました。私などより遥かに痛みや苦しみのある人の話です。そこで昔から聞いていた「上を見れば限りなく、下を見れば限りない」という言葉が頭に浮かびました。その本当の深い意味に77歳にして気付いた思いでした。そうです、世の中には北岡さんよりも私よりも、もっともっと辛い苦しい副作用に耐えている人が沢山いるのです。その事実に気付いたら、来週の副作用を恐れる気持ちが少し軽くなりました。願わくば、この先人の知恵から生まれた言葉が北岡さんにも役立つと良いなと思い、ここに書き込みました。

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  2.  おーい、元気か。癌患者にこんな無粋な挨拶をするのは常識知らずだと思う。しかし、ブログを読むかぎり、なかなか元気そうだ。多くの旧知の諸氏を往き来をしているようで、たいへんよいことだ。君のブログを読むと、記憶力が素晴らしいことに驚かされる。
     僕が予想したとおり、抗癌剤の副作用で苦しんでいるようだ。自分自身の生命力を削って癌と闘っているわけで、副作用に耐えられるかぎり、癌に勝っている証拠だと思う。たいへん気の毒だが、俺はどっこい生きている、癌に勝っていると思って、自分を褒めてやるべきだろう。
     ところで、一昨日、熊谷の加藤一夫くんに会った。君と一緒に活動をやり、本を作ったそうじゃないか。彼は僕と同じ歳だが、大学院の研究室で一級下だった。同じポーランド研究をやった仲間だ。同じ研究室でもう一人ポーランド研究をやっていたのがいた。それが後に「ゲバ子」として有名になった柏崎(旧姓斎藤)千枝子さんだ。加藤くんに会ったのは、大学院の共通の先輩だった戸田三三冬さんを偲ぶ会だ。偲ぶ会の様子は次に書いた:https://www.facebook.com/tito41jp/posts/1778101295545556 加藤くんは非常に元気そうで、まもなく大きな本(活動報告)を出版するといっていた。君の文章も入っているのかな。
     もう一つ、スマホが見つかったそうだけど、このあいだどこかに置き忘れた「スマホを見つけるアプリ」というのがあるということを知った。今度忘れるようなことがあったら使ってみるとよいだろう。

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