2018年3月21日水曜日

沢田知可子

朝の薬を飲んだら30分後、吐いた。3度。抗ガン剤の副作用がだんだん激しくなる。胃の中が空っぽになったけど食欲がない。大阪の病院へ電話したけど「今日はお休みです」と硬質の警備員の声。そうか、今日は春分の日なんだ。茅ヶ崎市の主治医に電話したら明日病院へきなさい、という。点滴をするそうだ。それまでじっと待つより他ない。
こんな時は静養すべしとベッドにもぐりこんで寝ていた。

午後1時過ぎ、沢田知可子から見舞いの電話。
「北岡さん、お元気?(ガンは)大丈夫?」
副作用のことを正直に話すと顔が曇った(電話の向こうだったから勝手に想像しただけだけど)。

沢田知可子との付き合いも長くなったなあ。20年ほど前、LAダウンタウンの北、バンカーヒルにあったコンドミニアムの事務所にふらっとやって来た。ぼくは日本のテレビを一部しか見ていないので沢田を知らなかった。同行の若い男が「紅白にでたんだぜ、千可チャン」と胸を張った。
「逢いたい」という曲が大ヒットしてミリオンセラーとなったそうだ。その年、NHKの紅白歌合戦に出場した。ぼくだってNHKくらい出たことあるし、BSの1時間番組を数本制作したこともある。ハリウッドの俳優、マコ・イワマツをキャスティングして「日系アメリカ人の半世紀」や「アマゾンに生きる日本人」などを制作した。

そのころぼくは紅白にとっくの昔に興味を失っていた。もちろん歌手の世界ではメジャーなのだろう。
親しくなったところで「千可チャン、LAでライヴのコンサートしないか」と誘ってみた。
「やりたいわ。できるの?」
彼女の熱い眼差しに促されて、全米日系人博物館新館のこけら落としにちょうどいいな、とアイリーン・ヒラノ館長(後にダニエル・イノウエ上院議員夫人)に話し、実現した。
<沢田知可子”愛”を歌うフレンドシップ・コンサート>と銘打ってライヴのコンサートをプロデュースした。1999年2月13日のことだ。その時の総領事が谷内正太郎(現国家安全保障局長)だった。

沢田知可子は芸能人にありがちな真っ青なアイシャドウ、長いツケマツゲ、真っ赤な口紅といったイメージからほど遠い。実に清楚で端麗な歌手である。声に透明感があり、歌が抜群に上手い。今も全国からお呼びがかかり、コンサートに余念がない。
ダンナがピアニストでナイスガイ、仲良し夫婦だ。
LA公演は1日2回やったけど会場は超満員、大成功だった。日本人のお爺ちゃん、お婆ちゃんが感動して目を潤ませていた。アイリーンも喜んでくれた。

「心配で、心配で、電話かけるの、ちょっとこわかtったの」
「大丈夫だよ。大丈夫。今日はちょっと(副作用で)しんどいけどな」
東京は雪で白くなっているという。それまで窓の外を眺めていなかったので、千可チャンの指摘で春の降雪を知った。
「こういう(ぼくの)状態なのでことしの花見は無理だなあ」
ぼくはちょっと寂し気に言った。

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