昨日は3月3日、ひな祭り。女の子の節句だが、今や雛人形はテレビの液晶画面で観る時代となっている。そう言えば数年前、北海道の江差町へ講演に行った時、街中の雛人形を集めて観光客用に町家に飾っていた。最早、ごく普通の家庭で飾る女の子も地方にはいなくなったのか。季節感を感じさせるものがテレビでしか見られないというのはつまらない世の中だと思う。
春一番の訪れで一時、マンション周辺は烈風に晒された。それでも水が温んだのだろう、今日は一気に気温が上がって初夏の陽気。春はまだ浅いけど新緑の芽の膨らみを感じ、小さく胸が動く。四季が巡る日本列島は年中、好天気のカリフォルニアより風情があっていい。間もなく桜が華やかに咲くだろう。
今季の寒さは厳しかったなあ。新幹線で大阪から米原周辺を通過する時、大雪に阻まれ、名古屋駅の手前で数台列車待ち。小田原に着いたのが午前1時近くでもちろん終電車は終わっていた。やむなく小田原からタクシーで茅ヶ崎まで帰ったことはすでに書いた。
朝食を終え、血圧を測り、抗ガン剤、降圧剤を飲んだところで電話が鳴った。昨年九州大学の教授を退いた敬愛している産学連携の専門家。日本開発銀行(今は日本政策投資銀行)の元LA首席駐在員、谷川徹だった。1995年から数年、シリコンバレーで毎月、新しい情報通信技術の勉強会をやっていた仲間である。アル・ゴア・ジュニア(米国副大統領)が提唱した情報スーパーハイウエイをなんとかキャッチアップしたい、と。
1994年1月11日、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で開かれたテレビ芸術科学アカデミー主催のスーパーハイウエイ・サミットで基調講演したゴア上院議員のスピーチは感動的な内容だった。
ゴアは「デジタル革命」という言葉を使い、次にように語った。
「もし自動車が近年に見られるコンピューター・チップと同じくらい急激に進歩すれば、ロールスロイスなど25セントで時速100万マイルくらい走れるようになるだろう」
そしてぼくらが持っているスマホはそれ以上のパフォーマンスを実現している。
「いま、茅ヶ崎の駅だが・・・」という谷川のメッセージに慌てて返事をし、タクシーを呼んだが混んでいてすぐ来てくれない。やむなく外へ飛び出し車を探す。日曜の朝、街を流しているタクシーなんかいるはずがない。都合のいいことに路線バスがやってきた。10数分待たせて谷川と会う。九大で会って以来、7年が経っていた。彼はどこも変わっていなかった。
谷川は開発銀行(当時)で竹中平蔵(総務大臣、郵政大臣など)と同期生。彼の年代、東京大学の入学試験が紛争の影響で無かった。開銀(後に名を変えたが)がLAに駐在員事務所を開設したのは、当時問題だった日米の貿易摩擦対策として米国からの対日投資を増加させ、また絶好調の米国経済の背景を探る拠点とするためだった。シリコンバレーがこの頃インターネットやベンチャーの勃興で世界の注目を浴び、そのフォローアップは重要な任務だった。初代は小門裕幸(後に法政大学教授)で、小門も谷川も若く意欲的、とても張り切っていた。
その後谷川は帰国して人事部長から地方の運輸会社の副社長のポストを示された。なぜ、自分が・・・。米国、いや世界の経済を牽引するシリコンバレーのメカニズムや、ベンチャービジネスの本質を日本に紹介しようと熱い思いでいた谷川には、とても承服できる人事ではなかった。自分の思いを実現する為には自分で道を切り開かなければだめだと辞表を出したら、人事部長が顔色を変え慌てたそうだ。現職の部長が、提示された人事案件を拒否して辞めるという事態が開銀では例のないこと。開銀人事のメカニズム、組織秩序の否定に繋がるからだ。
春一番の訪れで一時、マンション周辺は烈風に晒された。それでも水が温んだのだろう、今日は一気に気温が上がって初夏の陽気。春はまだ浅いけど新緑の芽の膨らみを感じ、小さく胸が動く。四季が巡る日本列島は年中、好天気のカリフォルニアより風情があっていい。間もなく桜が華やかに咲くだろう。
今季の寒さは厳しかったなあ。新幹線で大阪から米原周辺を通過する時、大雪に阻まれ、名古屋駅の手前で数台列車待ち。小田原に着いたのが午前1時近くでもちろん終電車は終わっていた。やむなく小田原からタクシーで茅ヶ崎まで帰ったことはすでに書いた。
朝食を終え、血圧を測り、抗ガン剤、降圧剤を飲んだところで電話が鳴った。昨年九州大学の教授を退いた敬愛している産学連携の専門家。日本開発銀行(今は日本政策投資銀行)の元LA首席駐在員、谷川徹だった。1995年から数年、シリコンバレーで毎月、新しい情報通信技術の勉強会をやっていた仲間である。アル・ゴア・ジュニア(米国副大統領)が提唱した情報スーパーハイウエイをなんとかキャッチアップしたい、と。
1994年1月11日、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で開かれたテレビ芸術科学アカデミー主催のスーパーハイウエイ・サミットで基調講演したゴア上院議員のスピーチは感動的な内容だった。
ゴアは「デジタル革命」という言葉を使い、次にように語った。
「もし自動車が近年に見られるコンピューター・チップと同じくらい急激に進歩すれば、ロールスロイスなど25セントで時速100万マイルくらい走れるようになるだろう」
そしてぼくらが持っているスマホはそれ以上のパフォーマンスを実現している。
「いま、茅ヶ崎の駅だが・・・」という谷川のメッセージに慌てて返事をし、タクシーを呼んだが混んでいてすぐ来てくれない。やむなく外へ飛び出し車を探す。日曜の朝、街を流しているタクシーなんかいるはずがない。都合のいいことに路線バスがやってきた。10数分待たせて谷川と会う。九大で会って以来、7年が経っていた。彼はどこも変わっていなかった。
谷川は開発銀行(当時)で竹中平蔵(総務大臣、郵政大臣など)と同期生。彼の年代、東京大学の入学試験が紛争の影響で無かった。開銀(後に名を変えたが)がLAに駐在員事務所を開設したのは、当時問題だった日米の貿易摩擦対策として米国からの対日投資を増加させ、また絶好調の米国経済の背景を探る拠点とするためだった。シリコンバレーがこの頃インターネットやベンチャーの勃興で世界の注目を浴び、そのフォローアップは重要な任務だった。初代は小門裕幸(後に法政大学教授)で、小門も谷川も若く意欲的、とても張り切っていた。
その後谷川は帰国して人事部長から地方の運輸会社の副社長のポストを示された。なぜ、自分が・・・。米国、いや世界の経済を牽引するシリコンバレーのメカニズムや、ベンチャービジネスの本質を日本に紹介しようと熱い思いでいた谷川には、とても承服できる人事ではなかった。自分の思いを実現する為には自分で道を切り開かなければだめだと辞表を出したら、人事部長が顔色を変え慌てたそうだ。現職の部長が、提示された人事案件を拒否して辞めるという事態が開銀では例のないこと。開銀人事のメカニズム、組織秩序の否定に繋がるからだ。
幸か不幸か谷川夫妻には子供がいなかった。夫人も「あなたがやりたいことをやったらいいじゃない」と辞めることに同意してくれた。彼は再渡米し、そのままスタンフォード大学の客員研究員としてシリコンバレーやベンチャーの研究を続けた。突然の退職を心配したぼくは新宿駅の上階の喫茶室に呼び出し、「生活は大丈夫か」と訊いた。
「北さん、毎日が晴天の下で暮らしているような、晴れ晴れとした日々ですよ」
谷川は本気で両手を挙げ、楽しそうに伸びをした。そうか、そんなに息苦しい気持ちだったのか。組織を離れて長いぼくは谷川の気分を忖度し、彼が今、味わっている解放感を柿間見た。日本の大企業の幹部を経験した人間の本音に触れた気がした。
老婆心とはこのことか。ぼくはすっかり安心してLAに戻った。
その後、彼はスタンフォード大学を経て九州大学総長からの要請を受け、総長補佐、正教授となり、九州大学産学連携の中核組織、知的財産本部を創設、九大の技術をビジネスに結び付ける産学連携の仕事で実績を上げた。また学生にベンチャー・スピリットを与え応援する組織、ロバート・ファン/アントレプレナーシップ・センターを起ち上げている。昨年春勇退、これからもやりたい産学連携や若者への教育を続けるそうだ。谷川が取り組んだ産学連携や教育こそベンチャー・スピリットの具現化だった。
ロバート・ファン・センターの開所式にはぼくも参加した。キイノート・スピーカーはベンチャー精神溢れるパソナの南部靖之だたった。南部とも久しぶりの再会。予期せぬ場だったことで南部も目を丸くしていた。東北大震災で東北一帯が大津波に呑み込まれ、福島原発が溶融したのはそ、れから間もなくだった。奇しくもぼくは発生の瞬間もまた東京・大手町のパソナ本社にいた。6時ころだったと思う。南部が本社にやって来て、翌朝未明までテレビを眺めながら大自然のエネルギーを二人で語り合った。
何事も慎重で組織の論理が優先する日本のビジネス社会で「ベンチャー」の意味を正確に理解できる人材は多くない。そこに谷川の苦労があったろうが、それだけにやりがいもあったに違いない。余談だがボストンのMIT(マサチュ―セッツ工科大学)でマスター・ディグリー(修士号)を取得、イギリスの技術会社の経営をやっていたぼくの高校の同級生・綾尾慎治が九大で谷川と一緒にベンチャー支援事業を手伝っていた偶然には驚いた。博多で楢崎弥之助(元衆議院議員)らと一緒に飲んだ。不思議な縁だった。
何事も慎重で組織の論理が優先する日本のビジネス社会で「ベンチャー」の意味を正確に理解できる人材は多くない。そこに谷川の苦労があったろうが、それだけにやりがいもあったに違いない。余談だがボストンのMIT(マサチュ―セッツ工科大学)でマスター・ディグリー(修士号)を取得、イギリスの技術会社の経営をやっていたぼくの高校の同級生・綾尾慎治が九大で谷川と一緒にベンチャー支援事業を手伝っていた偶然には驚いた。博多で楢崎弥之助(元衆議院議員)らと一緒に飲んだ。不思議な縁だった。
ガンの話からすっかり離れたけど谷川がわざわざ遠い茅ヶ崎まで見舞いに来てくれたことは嬉しかった。二人は夢中になってLAでの思い出やシリコンバレーでの勉強会「SVMF(シリコンバレー・マルチメディア・フォーラム)」など30年前の過去と現状を語り合った。周囲にぼくのガンなんか気にする者なんて誰もいない。もちろんぼくは一向構わない。ガンのお陰で予期せぬ人と楽しい時間が持てた。
芥川賞受賞作家、開高健がお気に入りの蕎麦屋に案内した。谷川は天ぷら蕎麦を、ぼくは大好きなカレー南蛮蕎麦を注文したが、やはり味なく大量に食べ残した。抗がん剤の副作用で味覚が麻痺しているのは悔しい。明日は茅ヶ崎の病院で診察がある。味覚の現状はきちんと訴えよう。
芥川賞受賞作家、開高健がお気に入りの蕎麦屋に案内した。谷川は天ぷら蕎麦を、ぼくは大好きなカレー南蛮蕎麦を注文したが、やはり味なく大量に食べ残した。抗がん剤の副作用で味覚が麻痺しているのは悔しい。明日は茅ヶ崎の病院で診察がある。味覚の現状はきちんと訴えよう。
0 件のコメント:
コメントを投稿