2018年3月7日水曜日

ニューヨークとサイゴン

今朝も珍しい人から電話があった、「元気ですか。(ガンは)大丈夫ですか」というガンを心配してくれる声。彼は1990年代後半、先に書いたゴアの”情報スーパーハイウエイ”がマスコミの流行語になっていた時代に知りあった。ニューヨークからLAに出張に来た時、現地駐在員が紹介してくれた。ぼくがニューヨークへ行くと時間を割いて付き合ってくれ、寿司屋のカウンターバーで飲んだ。同じ昭和16年の生まれだったことで大いに盛り上がった。以来、LAに来ると声をかけてくれた。

ニューヨーク駐在、日本最大の情報通信会社の現地米国法人の社長だった。京都大学卒の英才で元左翼。ぼくらの学生時代は左翼でないと人間じゃあない、という雰囲気に包まれていた。「学生の歌声に 若き友よ手をのべよ~」NYの寿司バーで酔った勢いで恥ずかしくもなく肩組んで歌った。

今は引退しているが、本ブログを読んだそうだ。

嬉しいじゃない。昔、ニューヨークとLAで時々、付き合った人がぼくのガンを心配して電話をくれる。「ガンも悪くないな」と勝手にほくそ笑んでいる。罹ガンしてぼくが病院で七転八転、転げまわって苦しんでいる、と想像している人がいるのかも知れない。それは誤解だ。(いや、もっと先のことか)

そんなことはない。「普通の生活」をしている。妙な表現だが、「健康な病人」なのだ。まさに「矛盾」そのもの。以前にも書いたけど肝臓は自覚症状が全くない。だから「怖い」とも言えるが、罹患もガンの進行も本人はまったくご存じない。痛くも痒くもなかったのである。

しかし・・・。ガンに罹ったことが分かった時点で、自分より周囲の人の反応が敏感だった。ぼくの肝臓ガンに仰天している。いろんなコンタクトがあって、「いい機会だ、北さん、この際ブログを始めたら」と勧めてくれたのが在阪のジャーナリスト・池田知隆だ。昨年晩夏、サイゴンのマジェスティック・ホテルの屋上バーだった。

ワインを飲みながら話した池田は、毎日新聞で「余録」を書いていた記者だった。三井三池炭鉱の町の駅前の自転車屋の息子、というのもいい。1949年熊本県生まれの団塊世代。戦後、新設された国立有明工業高等学校電気工学科に進学、早稲田大学政経学部に移ったという新聞記者としてはちょっと変わり種。ホームページ作りは独学だそうだ。

彼が主宰している大阪自由大学のサイトを見て、「あっ!これ、オレがやりたかったサイト」と思わず叫んだ。そこから大阪参りを始めて、池田にいろいろ教えてもらった。ブログを始めたらいろんな反応がある。もちろん読んでくれているのはぼくの知人友人。そして彼らもまた老いを生きる現実に(思いのほか)悩んでいる。

真っ赤な地色に黄色いハンマーと鎌が描かれたベトナム共産党旗が暗い夜空に揺れていた。サイゴンは金儲け目当ての投資家で溢れていた。ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)がアメリカと戦ったメコンデルタのトンネルは観光客で賑わっていた。池田は元全共闘議長・山本義隆らの山崎博昭(京大文学部1年)君虐殺50周年の弔問団に参加したのだった。

ベトナム戦争とは何だったのだろう。
池田に会った時、ぼくはまだガンが体内で成長していることを知らなかった。

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